No.13・14 ハリー・ベルトイアのサイドチェアー(420)ダイアモンドチェアー(421) 1952

先月に続き、クランブルックで学び、イームズ、サーリネンと仕事をし、自らはダイアモンドチェアーという美しい椅子をデザインした彫刻家ベルトイアについて書きます。

ハリー・ベルトイアはイタリアで生まれ、1930年にアメリカへ移住。1938年にクランブルック アカデミーへ入学。その後、メタルワークの工房を設立し指導にもあたる。1943年よりカリフォルニアでイームズと成形合板の加工技術の開発に協力するが、考え方に差異が生じ、1950年からハンス・ノール(ノール社の社長)の援助のもと東海岸(ペンシルベニア)に移り自由に制作活動をする。そのころできたのがダイアモンドチェアーである。その後は終生彫刻家として、建築家とのコラボレーションなどにより多くの彫刻作品を残し、受賞も多い。
ベルトイアは、自らの彫刻制作において、常に空間、形態、金属の特性の関係を追及するが、家具においても同じである、という。
美しいワイヤー・メッシュでできた三次元の椅子は、量産化への難題を克服し1952年ノール社のマディソン・アベニューのショウルームに展示され、翌年から製造に移された。ダイアモンドチェアーは、大、小の二種類のサイズにハイバックタイプとオットマンがあるシリーズのデザインとなっている。大きい方は横幅が45インチ(1125ミリ)にもなる。サイドチェアーは一種類である。いずれもスティールワイヤーと白色のビニールコーティングされたものがある。また、布地でカバーリングしたものやクッション付のバージョンもあるが、ベルトイアは透明感を損なうとして好まなかったとされている。
ベルトイアの彫刻家としての力量がいかんなく発揮された美しい椅子である。
デザイン:ハリー・ベルトイア(Harry Bertoia 1915〜1978)
製  造:ノール社(Knoll International)


▲サイドチェアーのある Paley Park(New York)
ポケットパークといえば、この「Paley Park」がよく取りあげられ、ニューヨークのある種の名所となっている。1967年にでき、設計は Zion and Breen。

 
▲ベルトイアの手になる MIT(マサチューセッツ工科大学)のチャペルのスクリーン

空気のデザイン
チャペルへ足を踏み入れ、祭壇に向かって二歩三歩と進む。天井からの光と空気に反応してキラキラ光る金属片。ただ神秘的で美しいの一言。そのデザインに感動し数分間直立して眺めていた。
MITのチャペル、ベルトイアの手になるスクリーンに出会ったときである。
1967年の夏、私をニューポート・ジャズフェスティバルへ駆り立てたのは、学生時代に見た映画「真夏の夜のジャズ」(1958年、バート・スターン監督)の鮮烈な印象であった。 だが、ニューポートへの旅もさることながら 同時にもう一つの目的を抱いていた。それは、ボストンを経由して、どうしてもサーリネンの設計したMITのチャペルを訪ねてみたいことであった。が、映画で見た時の状況から推測すると、ニューポートへは車で行く必要があり、ボストンへ寄ることに二の足を踏む友人に頼み込み、事務所で休暇をもらい実現する。 ニューポートのジャズフェスティバルについても語れば尽きない感動ものであったが、MITのチャペルと合わせてなんとも贅沢な旅を満喫した。夏の暑い盛りのことである。
ネルソン事務所にいたころは、お金もなく、事務所の帰りに近所のスーパーへ立ち寄り、1ドルを目安に買い物をするわびしい自炊生活の日々。楽しみといえば、たまに行くグリニッチヴィレッジのジャズクラブで、1ドルのビールでおそくまでねばることぐらい。それでも、土、日などは歩くことだけをたよりに、ショウルームや美術館などを観て回るのが、当時の私にとって一番金のかからない余暇の過ごし方になっていた。
ある日の昼下がり。歩いていて突然目新しい小さな公園の出現に驚かされた。53丁目、五番街を東に入ったビルの谷間に、間口12メートル奥行き30メートルぐらいの公園。正面の壁から水が滴り落ち、木々の間に置かれていた椅子がベルトイアのサイドチェアー。
白くコーティングされたサイドチェアーは、これ以外のどんな椅子を持ってきてもダメだろう、いやこの空間のためにオーダーされたのではないかと思うほどあたりに同化し、この公園をすばらしい場に仕立てていた。
これが「ポケットパーク」というのだと知ったのはずっと後のことだが、マンハッタンの街中にこんな憩いの空間を造る知恵に感服し、いい場所を見つけたと内心うれしくなった。事務所からの帰路や「マンハッタン歩き」で疲れた時など、ハンバーガーをほおばりながらよく利用したものだ。ベルトイアの椅子に身をあずけて。
彫刻家であるベルトイアは生涯多くの彫刻作品を残したが、椅子はワイヤーのメッシュでできたダイアモンドチェアーとサイドチェアーだけである。いずれにおいても、彫刻家らしく常に作るものの周りの空間を意識し、椅子の周辺の空気をデザインしていたのだと思う。
それにしても、この名作を生んだのはクランブルック時代のすばらしい交友関係にある。ベルトイアがシュー  に初めて会ったのは、お互いが学生の身でありながら、なんと学長であったエリエル・サーリネンの家であったという。よき時代のクランブルックの自由な雰囲気が彷彿とする。
注1:フローレンス・シャスト(後にノール社の社長であるハンス・ノールと結婚したフローレンス・ノール)のクランブルック時代のニックネーム