No.17 ぺリアンの成型合板の椅子(ぺリアン・チェアー) 1955

先月に続き、女性のデザイナーです。バブル期以後、海外のデザイナーがわが国で仕事をすることが多くなりましたが、今月は戦前に日本政府がフランスから招いたデザイナー、ぺリアンの日本での話をしましょう。
ぺリアンは1903年パリで生まれる。1927年、サロン・ドートンヌに出品した「屋根裏のバー」を契機に、ル・コルビュジエの事務所に入所。以後10年間ル・コルビュジエの協力者として、ピエール・ジャンヌレとともに次々と新しい素材と形態の家具を発表する。ル・コルビュジエがデザインしたとされる椅子などは全てこのころのものである。
1940年(昭和15)、日本の商工省が輸出用工芸品の指導のためにぺリアンを招聘する。来日した彼女は精力的に京都や東北地方を見てまわり、日本の風土や習慣から生まれた素材や道具を新たな視点でデザインし、翌年の春に高島屋の東京と大阪で「選択・伝統・創造」展を開催して発表。日本の若いデザイナーに衝撃を与えた。
1954年から再び日本で生活し、55年に、「造形芸術と住まいに関する分野においての芸術の綜合」というテーマによる展覧会「巴里1955年・芸術綜合への提案・ル・コルビュ、レジエ、ぺリアン3人展」を開催。このとき発表されたのが、ぺリアン・チェアーといわれている椅子である。この展覧会では、この椅子の他に、飾棚、テーブル、事務用机など数多くの家具も発表され、そのデザインは世間を騒がせた。
この椅子は、1974年ハードウエア商会によって復刻。オリジナルは10ミリ厚の成形合板で作られたが、強度の問題から現在は厚みを17ミリに増し、天童木工から製造・販売されている。スタッキングは可能であるが、2脚以上になると脚がくいこみ 着脱が困難であり、実際上は不可能である。しかし、この椅子の評価は、プリミティブな形状ではあるが成型合板のワンピースでできる椅子の形状を提示したことである。
デザイン:シャルロット・ペリアン
(Charlotte Perriand 1903〜1999)
製  造:三好木工(1955年のオリジナル)
その後、ハードウエアー商会から復刻されたが、天童木工で製造・販売されていた(1997年に復刻)現在イタリアのカッシーナ社から販売されている。
ぺリアンの日本での活躍など詳細は、「日本の意匠と東西交流 国際デザイン史」思文閣出版 の中の畑由起子「シャルロット・ぺリアンと日本」

ぺリアンの棚との邂逅
ふとしたことから35年ぶりに、いやもっと正確にいえば45年ぶりかも知れないが、ぺリアンの飾棚に再会し、突如走馬灯の如く当時のことが甦った。
1965年、米国へ留学することが決まり、勤めていた高島屋の会長室へ挨拶に行ったとき。挨拶もそこそこに大きな部屋のまん中にあった間仕切り棚に見とれていた。誰にいわれるともなく、これはぺリアンの棚だ、と私の直感が走ったのは1955年の残像  がどこかにあったからだろう。
この飾棚に偶然再会したのは数年前のこと。研究資料を収集するために訪れた高島屋史料館の裏部屋で誰からも注目されることなく静かに佇立していた。35年ぶりであったが瞬時に、「これはぺリアンの棚ではないの?」と聞いてみたが、館長らは首を振るばかり。彼らの話によれば、本社移転の時あまりに大きく、捨てるのも惜しいし、置く場所もないのでここに持ち込まれたが、今は史料でもなく、収蔵品リストにも載せていないという。
だが、その容姿はとても50年も前に作られたものとは思えない端麗な時代を越えたもの。
ただただすばらしいと唸るだけ。さらに驚くことは、見事なノックダウン構造になっていた。
今、1955年にペリアンらが高島屋で開いた展覧会  のカタログを手にしてこの原稿を書いているのだが、この棚を実測してみると、作品番号52の会場全体に使われた飾棚  であったと思われる。
つい先ごろ、昔の雑物を整理していて古びたブリキの缶が見つかり、そのなかに「ローマの休日」など高校時代に見た映画の黄ばんだパンフレットとともに偶然出てきたのがこのカタログ。青春時代がいっきに甦る。
高校時代は勉強などそっちのけで絵ばかり描いていた。戦後の困窮からようやく立ち直りはしたが、文化的催などまれで、マチスやルオーなどの展覧会があるといえば、長蛇の列を並んででも見に行ったものだ。この展覧会もレジエを見るのが目的であったのだろうか、その頃はデザインの道に進むことなど頭の片隅にもなく、椅子についてもそれほど記憶がないのはなさけない限りである。
成形合板という木の加工技術を知ったのもずっとあとの大学卒業後のこと。天童木工(1962)のコンペがあるというので、何かおもしろいものができないかと、小学生時代に厚紙に切り目を入れて折り曲げ、 好きな力士の名前を書いて遊んだ紙相撲まがいのものを作っていた。
「そんなものはある」と先輩に言われて、写真を見せてもらったとき初めてぺリアンの椅子を意識した。当時は現物を見ることもできず、 現物にふれたのは、1974年ハードウェアー商会によって復刻されてからのことである。
今になって、ぺリアンの飾棚や椅子を見ると、その先見性やデザインに対する真摯に取り組む姿勢もさることながら、食べることがようやくという時代であるにもかかわらず、日本の木工技術や職人の技にも心底から驚かざるを得ない。

 

 

1955年に開催された展示会のカタログ▲

 

*1「巴里1955年 芸術の綜合への提案 ル・コルビュジエ、レジエ、ペリアン3人展」と題して坂倉準三らの協力で、産業経済新聞社と高島屋の主催で昭和30年の4月に開催された展覧会。成形合板の椅子もこの時展示された。
*2実測の結果は、3900W、2000Hで作品番号49とは高さが異なるが、カタログ写真と照合すると同じデザインであり、作品番号51の会場全体の展示に使われたものと考えられる。隔て板と背板はアルミ板にラッカー仕上げのものはフランス製。〈図と写真を参照〉たが、文化的催などまれで、マチスやルオーなどの展覧会があるといえば、長蛇の列を並んででも見に行ったものだ。この展覧会もレジエを見るのが目的であったのだろうか、その頃はデザインの道に進むことなど頭の片隅にもなく、椅子についてもそれほど記憶がないのはなさけない限りである。
成形合板という木の加工技術を知ったのもずっとあとの大学卒業後のこと。天童木工(1962)のコンペがあるというので、何かおもしろいものができないかと、小学生時代に厚紙に切り目を入れて折り曲げ、 好きな力士の名前を書いて遊んだ紙相撲まがいのものを作っていた。
「そんなものはある」と先輩に言われて、写真を見せてもらったとき初めてぺリアンの椅子を意識した。当時は現物を見ることもできず、 現物にふれたのは、1974年ハードウェアー商会によって復刻されてからのことである。
今になって、ぺリアンの飾棚や椅子を見ると、その先見性やデザインに対する真摯に取り組む姿勢もさることながら、食べることがようやくという時代であるにもかかわらず、日本の木工技術や職人の技にも心底から驚かざるを得ない。