No.22 剣持勇 籐の丸椅子(C−315−E) 1960

このコラムが始まって以来ずっと欧米の椅子について書いてきましたが、 先日、京都の国立近代美術館で開かれた剣持勇の展覧会。やはりあの丸い籐の椅子はジャパニーズ・モダンの典型でしょう。

剣持勇は、東京高等工芸学校を卒業後、商工省の工芸指導所(仙台)へ入所。 創作をはじめ調査・研究活動などを精力的に行なう。そのなかでブルーノ・タウトとの出会いはその後の剣持の活動に大きな影響を与えた。1955年に剣持勇デザイン研究所を設立し、インテリア・家具を中心に、日本のデザイン界のリーダーとして活躍する。
特に、60年代に天童木工を中心に製造・販売された一連の家具のデザインは、「ジャパニーズ・モダン」として日本の家具デザインを国際的レベルにまで牽引した。
籐を使った丸い椅子は、1959年ごろからデザイン・製作され新制作協会の展覧会で発表したものを、東京・赤坂のホテルニュージャパン(その後火災で焼失)のためにリ・デザインしたもので、籐の芯を丁寧な手仕事で編み上げられた表面は美しく、おおらかな造形は剣持の目指したジャパニーズ・モダンの典型である。 同時期に籐を使ったスツールなど一連のものがある。1964年、ニューヨーク近代美術館のコレクションに選定。
ただ、1965年にエーロ・アールニオ(Eero Aarnio)が、1966年にジョバンニ・トラバサ(Giovanni Travasa)が同じような籐による丸い椅子をデザインしたと、海外の資料に紹介されているが、日本の情報は欧米からは遠いと言わざるをえない。
デザイン:剣持勇(1912〜1971)
製  造:山川ラタン
参考文献と図版:展覧会のカタログ「ジャパニーズ・モダン、剣持勇とその世界」、財団法人松戸市文化振興財団


▲1970年日本万国博の時のベンチ


▲剣持勇の1959年の異なるバージョン


▲エーロ・アールニオ1965年の藤の丸い椅子


▲ジョバンニ・トラバッサ1966年の藤の丸い椅子

つい先ごろ、 久しぶりに満月のような剣持勇の籐の椅子に体をあずける機会があった。ゆったりと。思いにふけりながら。
秋色真っ盛りの京都国立近代美術館で開かれた展覧会「ジャパニーズ・モダン 剣持勇とその世界」〈*1〉の会場入口でのことである。
剣持勇に初めて会ったのは、1962年天童木工のコンペで生まれて初めて椅子(スツール)のデザインをし、思いもよらず受賞したとき。 賞金の10万円が当時の給料の7倍にもなり有頂天になった表彰式の後、審査委員長として「なかなかいいよ」とお褒めの声を掛けられたのが最初で最後である。
剣持の産業工芸指導所時代の活動も目をみはるものがあるのだが、特に60年代を疾風のごとく「ジャパニーズ・モダン」を創作の原点として駆け抜けた剣持の仕事は、いつも私の意識の中にあり続けていた。 会場に並んだ天童木工を中心とした家具の一つ一つを見ていくと、私自身がそれぞれとどのように向き合ったか、その時々の思いが鮮やかによみがえる。 当然、赤坂のホテルニュージャパンへも見に行った。それらのなかで、剣持に会うことはなかったが、 一回だけ施主の立場になったのが70年万博のベンチである。68年当時、協会職員としてストリート・ファニチュアーのためのデザイン料がなく、その予算折衝をしたことなど、いまになると懐かしい。
展覧会場を見て歩くうちに、展示品の中に一本の小さい「こけし」が目に留まり、その瞬間、 ジョージ・ネルソンとの点と線が駆け巡った。1966年、 ニューヨークの 事務所で最初にネルソンに会ったとき「ケンモチを知っているか?」と聞かれたし、こけしについていえば、ネルソンが亡くなり、グラマシーパークのお宅を訪れたとき。 リビングルームの床の片隅に30本あまりの大きなこけしが林立していたことを思い出す。 その数にも驚いたが、高さが1メートルぐらいあるものもあり、いずれも立派なもので、そうそう日本でも目にすることはできないものばかり。 それらは、多分昭和32年(1957)産業工芸試験所の招きで来日したときに東北で集めたものと想像するが、剣持がその収集に力を貸したのではないかと思う。〈*2〉
秋晴れの昼下がり。展覧会場を出て、近代美術館内のコーヒーショップへ足を向けた。 気候のよさにつられ、テラスに出て白いパラソルの下でコーヒーを飲む。目の前には新たに塗り終えた平安神宮の真っ赤な鳥居がまぶしかった。 ふと、疎水の向こう側に目をやると、かつてネルソン夫妻が来日時一緒にコーヒーを飲んだ喫茶店はなくなっていたが、その夜彼らは旅館「俵屋」に泊まっていた。「どうしてここに宿を?」と聞くと、「ケンモチがすすめてくれた」という。 俵屋には、当時世界的著名人のサイン帳というのがあって、 その夜ネルソンも一頁をうずめたが、その前の頁をめくると、なんとニューヨークフィルを率いていたレナード・バーンスタインだった。 思わずネルソンと顔を見合わせた。
剣持の仕事は、60年代苦闘しながらジャパニーズ・モダンを追い求め日本の家具デザインを国際的レベルにまで牽引したが、籐の丸い椅子はその嚆矢となったもの。45年を経たいまも色褪せずにいる。
*1:2004年10月8日から11月3日まで開催された。
*2:1957年11月に産業工芸試験所(IAI)の招きで講習会が開催された。
こけしについては、ネルソンの著書“HOU TO SEE”、  Little,Brown and Companyのなかで、一つの項目を設け、丸い頭と円筒の胴体という単純な構成であるのにどうしてこれだけ異なるものが生まれるのか、と述べている。