No.25 フランコ・アルビーニの肘掛椅子(ルイザ)1955

先月のイギリス、ロビン・デイに続いて、今月も少し馴染みがないかもしれませんが、ポンティとともにイタリアの近代デザインを牽引したフランコ・アルビーニ。彼の「ルイザ」について書きますが、私にとって思い出の深い椅子です。
フランコ・アルビーニは、1905年イタリアのコモに生まれ、ミラノ工科大学を卒業。ジオ・ポンティの事務所を経て1930年に独立。建築を中心にインテリア、家具や電気製品まで幅広く活躍したほか、雑誌「カサベラ」の編集にも関わり、合理主義者としてイタリアの近代デザインを牽引した。家具デザインでは、 材料が十分にない戦後の50年代、木や籐といった身近の素材を職人の技を生かしてシンプルな近代的造形を模索し続けた。椅子では、「ルイザ」の他に「ルイザ」の原型と考えられる座と背が中央で分かれた肘掛椅子(1950)(*1)があるほか、籐の「マルゲリータ」や「フィオレンツァ」と「トレ・ぺッツィ」(*2)と名付けられた安楽椅子、ノール社から出たデスクなどがある。
「ルイザ」は、木製のフレームで座と背は合板にホームラバーと布でカバーされている。一部がかき取られた貫の形状や、前足と肘がほぞ継ぎで結合された美しいディテール。この時代に生まれたシンプルな肘掛椅子の典型であリ、60年代以後のイタリア家具デザインの造形を予兆している。
1955年にコンパソ・ドーロ(黄金コンパス)賞(*3)を受賞。その後3度この賞を受け、 審査員も務めるなどコンパソ・ドーロ賞とのかかわりは大きい。関西国際空港を設計したレンゾ・ピアノも若いころ彼の事務所で働く。
デザイン:フランコ・アルビーニ(Franco Albini 1905〜1977)
製  造:カルロ・ホッジ社(Carlo Poggi)後にアルフレックス社
*1:イタリアのデザインを世界に発信した第9回(1951)のミラノ・トリエンナーレに出品されたこの椅子を、1952年11月号の「工芸ニュース」で紹介されているのには驚く。
*2:アルビーニの家具デザインには、協力者としてフランカ・ヘルグ(Franca Helg 1920〜1989)がいる。この椅子もアルビーニとの協同である。
*3:ミラノに本拠があるラ・リナセンテ(百貨店)が1954年に始めた世界的に有名なデザインの顕彰制度。優れたデザインの工業製品に与えられ、その後のイタリアのマーケットにおけるデザインの進化に貢献した。

フィレオレンツァ(1962)▲

▲トレ・ベッツィ(1960)  ルイザの原型と考えられる肘掛椅子(1950)▲

 

  

▲黄金コンパス賞のマーク  カンツの国際コンペの応募要項▲

「あるじゃない」と一瞬声をあげた。 何年ぶりかでフランコ・アルビーニの椅子、「ルイザ」にめぐりあった。
座のホームラバーが少し劣化して青い上張りの布地を抑えるとへこむぐらいになっていたが、紛れもなくアルビーニの「ルイザ」であった。
昨春、九州の福岡で活躍するデザイナーで、椅子のコレクターでもある永井敬二さんのお宅を訪れ、二日にわたる椅子談義をして帰りがけのこと。「この部屋にもいくらか椅子があります」という永井さんの案内で入った入口の横で突然「ルイザ」にめぐり合った。 懐かしかった。 1967年にリナセンテで出会って以来かもしれない。
フランコ・アルビーニが私にとって忘れられないのは、ほんの個人的な理由からである。1963年にイタリアのカンツーの国際コンペに応募しようとしたとき。フィン・ユールやP.G.カステリオーニらとともに審査員であったからで、 応募するからには審査員の仕事を知ろうとして「ルイザ」に出会った。
家具の図面もろくろく引けないのに国際コンペに応募しようとしたのだから無謀というほかはない。が、日々の仕事は先輩のお手伝いばかり、とてもデザインをしているという実感をもてなかったことが応募に駆り立てていた。応募要項を読むと、提出するのはトレシングペーパーに描いた原図であった。 図面はもとより下手な鉛筆がきのフリーハンドの英文字など、今ならばとても見ていられないような代物であろう。 送り方も税関検査を考えて、筒を開封検査できるように紐をつけて結ぶような工夫もした。とにかく何もかも手探りで、オリンピック精神ではないが、参加することだけに意義をみつけていた。
それにしても、今から70年以上も前、昭和の初期(1933)にフランスのアルミニューム家具国際競技で西川友武が受賞しているのは驚くほかはない。応募に際して西川友武は、「競技の詳しい規定も充分判らざる内、之れに應募せんとする擧に出でたことは、寧ろ甚しく冒険的な、盲蛇におぢずの感あるものであった」(*1)というように、当時の工芸指導所という凄い環境とチーム力があったとはいえ、 私以上にオリンピック精神であったことがうかがえる。
これこそを「まぐれ」というのだろう。イタリアから受賞の知らせを受けたときは、何かの間違いなのではないかと、にわかに信じられなかった。給料の8倍にもなるチェースマンハッタン銀行の小切手と賞状が送られてきて、やっとのことで実感する。留学資金を安い給料から準備していたときだから賞金もありがたかったが、なんといってもうれしかったのは、駆け出しの私のデザインをアルビーニら世界のスターが認めてくれたこと。そして、あのなんとも稚拙な図面で、一度の打ち合わせもなくイメージどおりのプロトタイプを造ってくれた国、イタリアが急に近くに感じられた。 23歳のときのことである。
イタリアへの憧れはこのときに芽生えたが、その後この国に少しの距離を感じるようになったのは、憧れとは別の国、アメリカをその後の留学先に選んでしまったためだろう。
*1:西川友武著「軽金属家具」(工業図書株式会社、昭和10年発行)にコンペについて詳細に述べられている。 審査員にコルビュジェやグロピウス、1等にブロイヤーの名前が見られるのも驚かされる。だけに意義をみつけていた。
それにしても、今から70年以上も前、昭和の初期(1933)にフランスのアルミニューム家具国際競技で西川友武が受賞しているのは驚くほかはない。応募に際して西川友武は、「競技の詳しい規定も充分判らざる内、之れに應募せんとする擧に出でたことは、寧ろ甚しく冒険的な、盲蛇におぢずの感あるものであった」(*1)というように、当時の工芸指導所という凄い環境とチーム力があったとはいえ、 私以上にオリンピック精神であったことがうかがえる。
これこそを「まぐれ」というのだろう。イタリアから受賞の知らせを受けたときは、何かの間違いなのではないかと、にわかに信じられなかった。給料の8倍にもなるチェースマンハッタン銀行の小切手と賞状が送られてきて、やっとのことで実感する。留学資金を安い給料から準備していたときだから賞金もありがたかったが、なんといってもうれしかったのは、駆け出しの私のデザインをアルビーニら世界のスターが認めてくれたこと。そして、あのなんとも稚拙な図面で、一度の打ち合わせもなくイメージどおりのプロトタイプを造ってくれた国、イタリアが急に近くに感じられた。 23歳のときのことである。
イタリアへの憧れはこのときに芽生えたが、その後この国に少しの距離を感じるようになったのは、憧れとは別の国、アメリカをその後の留学先に選んでしまったためだろう。