No.32 プレベン・ファブリシヤス ヨーゲン・カストホルムの「63」(シミター)1963

先月、ポール・ケアホルムについて書くと、もう一人デンマークで、金属を主な素材としたヨーゲン・カストホルムについて書かなければならなくなりました。現在では馴染みがなくなりましたが、金属を使った巧みな造形は印象に残ります。

ヨーゲン・カストホルムは、美術金物職人としてスタートし、インテリアと建築をフレデリクスバーグ(Frederiksberg)工科大学で学ぶ。1961年に自らの事務所を設立し、家具を中心に照明器具など幅広くデザイン活動をする。1976年からはウッペルタル(Wuppertal)大学の教授でもある。
デンマークではケアホルムと同様に、否、それ以上に金属の使い方を熟知した特異な存在で、その巧みさは職人として得た技術的裏づけを感じさせる。永く海外に住み、ドイツなど国外のメーカーと仕事をした国際派のデザイナーである。金属を主な素材とし、ドイツの合理主義に北欧風の洗練された意匠をまとわせた造形は、オフィスやパブリック空間に使用される椅子のデザインでその力を発揮した。
「63」の椅子は、「シミター(Scimitar)」ともいわれ、鋳造された一本のステンレススティールで支えられたユニークでシャープな造形は、彼の本領をいかんなく発揮したもの。シミター(Scimitar)とはアラブで三日月型の剣のことをいい、脚部の形状を象徴している。座は成形合板のシェルを皮で張り包んである。Bo‐EX社のラウンジチェアーのシステムとともに1964年鮮烈にデビューをはたす。
その他の椅子ではドイツのAlfred Kill社の「FK6720A」や三本脚の回転椅子の「FKチェアー」。他に、Kusch社での多くの椅子がある。Bo‐EX社のラウンジチェアーや肱掛椅子などは日本総業から販売され70年代わが国でも公共空間で多用され馴染みが深い。いずれもシミターほどの個性的な造形ではないが、オフィスや公共空間の椅子として金属という素材に対して鋭い眼差しでデザインされた質の高いものが多い。照明器具では、わが国でもヤマギワから「SOLAR」という商品名で販売されている。

デザイン:プレベン・ファブリシヤス(Preben Fabricius)
ヨーゲン・カストホルム(Jorgen Kastholm 1931〜)
製  造:Ivan Schlecter
参考:1970年までカストホルムとプレベン・ファブリシウスは協同でデザインしていた。「63」のシミターのデザインをはじめ多くの椅子は協同である。が、カストホルムのデザインとして紹介されている資料もあり、その後のことも含めここではカストホルムを中心とした。
*1: デンマークのデザイン誌「mobilia」 no.106,1964年5月号
でデビューする。


▲chair「63」(シミター)


▲ヤマギワで販売されている『SOLAN」

▼Bo-EX社の肘掛け椅子と組み立て式システム家具
   

 
▲Alfred社 Killの「FK6720A 」とディテール

踏みはずした国際舞台への足がかり
このところたびたび行く友人の事務所。その一階ロビーにカストホルムのラウンジチェアーが並んでいる。新緑のころには外部に広がる緑が風にゆれるのを見ながら腰をおろすと、黒くやわらかい皮の感触とともに一昔前に踏みはずした海外への足がかりのことが甦る。
ある日突然、ヨーロッパの見知らぬ人から電報が来た。読めば、「日本へ行くので京都の都ホテルで会いたい」と日時を指定してあった。差出人はコムフォート(comforto)社の当時の社長パンベルグで、会ったこともなければ、まったく知らない人であった。コムフォート社は、そのころヨーロッパでトップクラスのオフィス家具会社(椅子中心)で、興味を持っていたのだが、その社長が1980年のスイスで開かれた国際コンペで受賞した私の作品を見て興味を持った、と住所を調べて電報を打ってきたのだ。ちょっとありえない話である。
「なんのことか」と出かけてみると、「いい構想があれば、わが社と仕事をしないか」という。棚からぼた餅とはこのことか、と内心小躍りしながら、「どうしてこんな遠いアジアにまで?」というと、彼は「どこの国のデザイナーであろうと関係ない。わが社にいいと思うデザインはどこの国からでも求める」と平然という。その日は意気投合して深夜まで飲んだのだが、その国際感覚と60年以後のオフィス家具の変遷などなんと博識なのかと驚くほかはなく、これが国際的企業の社長としてあるべき姿なのだろうか、と痛感する。このときが海外への踏み台に足をかけた一歩目。
二度目は、ネルソンがビトラ(vitra)社へ推薦してくれたとき、「いい案ができたら送れ」と社長から手紙をもらった。三度目は、フランスに住む友人がキル(Kill International)社の社長に紹介してくれ、参考にとどっさりカタログが送られてきた。見ると、カストホルムのなんとも美しい金属が鈍い光を放っていた。
当時の私は、世界を市場とする企業と仕事をすることを望んでいたのだが、残念ながらいずれも実現しなかった。私の方がギブアップしたのだ。というのも、そのころコムフォート社はイタリーのリチャード・サパーと、ビトラ社はマリオ・ベリーニと、さらにキル社はカストホルムと。いずれも世界的スターと組み製品開発をしていて、世界を市場とするにはどの程度のデザインでなければならないのか、いやというほどわかっていた。その上、あのころのオフィス用の椅子は、造形もさることながら造形を支える技術陣とのチームが必要だった。一言でいえば、力不足であったということに尽きる。
かつて、カストホルムの「シミター」には苦い思い出がある。60年代末、椅子の脚部を模索していたころ、「シミター」に出会い、リ・デザインを試みたが、その完成度に舌を巻き、ただマネをしてみたといってもよい程度に終ったことなど、ついこの間のように思える。
今、カストホルムを知る人はほとんどいない。過去の人といってしまえばそれまでだが、20世紀の椅子の歴史に登場することもまれである。それは、椅子がファッションとして表層的意匠によってのみ語られるためである。が、オフィスを含めた公共空間での椅子は、身体性や社会性が問われるもの。60年代からの公共空間の椅子として、カストホルムの誠実なモノづくりの姿勢にはもう少し光があたってもよい、と思うのだが。