No.36 フィン・ユールのNV−45(1945) とNV−48(1948)

先月のライトについて書けば、落水荘は避けて通れません。そこで不思議なめぐり合わせとなった落水荘とフィン・ユールの椅子について書いてみます。ユールは二度目になりますが。

フィン・ユールは、コペンハーゲンで生まれ、18歳のときスエーデンへ行きアスプルンド(*1)の建築に感激したというが、同年、王立芸術アカデミー建築科へ入学。1934年に卒業。1945年に自らの事務所を立ち上げ、建築、インテリア、家具など多方面に独自の方法論で活躍。インテリアで主なものはSASのオフィスやDC−8の内装、店舗ではウイルヘルム・ハンセンなどがある。
ユールの仕事の中でも、椅子のデザインにおいて40年代から木部の彫刻的な造形と構成で世界に名をはせた。カウフマンJr.(*2)の力もあって1951年にはシカゴのグッドデザインショウのインテリアもデザインし、50年代のアメリカでユールの椅子は大きな評価を得た。デンマークを代表するデザイナーの一人であり、60年代のわが国の家具デザインに大きな影響を及ぼした。
NV−45は、ユールの転機となったもので、それまでの総張りの椅子(ペリカンチェアー、1940)から木をフレームとした椅子で、座と背の支えられる部分と支える木のフレーム部分を明解に分離したことは木製の椅子として革新的である。加えて肘の部分の彫刻的な美しい造形はほかに類を見ない、40年代の肘掛椅子の名品である。
NV−48も同様の構成で、より明解に背と座を木のフレームから分離して浮き上がらせ、軽快さを出ている。いずれもが高度のクラフトマンシップの存在なくしてできないデザイン。
40年代のもう一つの代表作である肘掛椅子(NV−44)は1944年のデザインで、材質はローズウッドで造られ、12脚しか作られなかったが彼のお気に入りの椅子で、1982年に開催された回顧展のカタログの表紙にも自ら選んでいる。
1945年以来、ユールが用いたチークという素材の使い方とそのデザインはデンマークの家具を世界的なものに牽引し、この時代のデンマークの家具を「チーク・スタイル」、また「チークウッド時代」ともいわれている。

落水荘のフィン・ユール
 昨夜は雨が降ったのだろうか。木々の緑が少し濡れ、清澄な空気がただよう中を少し歩くと、かすかに水が落ちる音が聞こえはじめ、木立の間から見え隠れしながらあの落水荘(*1)が現れた。気分が高揚するのをおさえようもなかった。
 ニューヨークの友人をむりやり誘って落水荘へ行ったのは20年ぐらい前の夏の暑い盛りであった。早朝、車でニューヨークを出て、途中寄り道もしたが7時間ぐらいのドライブはけっこう疲れる旅。翌朝、一番の予約であったので、その日は近くの町ユニオンタウンに宿をとった。
 9時のスタートに間に合うよう朝食もそこそこに現場へ向かう。落水荘から少し離れた手前に立派なインフォメーションセンターができていて、見学には初老の案内人がついてくれた。どこの国でも同じだが、この種の案内人は、いかにすばらしいかを力説しながら案内を進めるのが常で、彼は得意そうに何度も「national treasure(国宝)」を連発する。まさにアメリカの桂離宮である。岩肌がむき出しになった居間を出て、ユーティリティであっただろうか。ライトの建物にしては風変わりな椅子が目にとまった。よく見ると、どう見てもフィン・ユールの椅子だ。不思議である。ここは家具までもライトが設計した当時のまま保存されているのに、とっさに「これはフィン・ユールの椅子ではないのか?」と聞くと、彼は目を白黒させて「そうだ。どうして知っているのか?そんなことをいう観光客はいない」といい、急に機嫌がよくなり、その後はわれわれのペースで見て廻ることができた。ここで落水荘について書くスペースはないが、それは期待にたがわず、二日がかりのドライブで苦労して行った価値は十分すぎるほどあった。
 が、どうしてユールの椅子がここにあるのか、帰りの車の中からそのなぞが解けないまま、魚の小骨がどこかにひっかかったような感覚を覚えていた。落水荘の完成は1938年。ユールの椅子が世に出るのは45年以後だから年代も違う。どう考えてみてもつじつまがあわない。おかしなことである。
 「そうだったのか」と、すべてを理解したのはその日の夜。余韻に浸りながらインフォメーションセンターで買った分厚い本をめくってみたときで、そこにはユールの椅子だけではない、ハードイチェアーも登場する。ここの住人であったカウフマンJr.が住んでいたときに使っていたものがそのまま保存されていたのだ。
 カウフマンJr.はユールと1950年ごろから親交を深め、ユールの椅子がことのほかお気に入りで、彼のデザインをアメリカに紹介し、何度も落水荘へ招いたという。カウフマンが国際デザイン賞(*2)を創設したとき(1960)にトロフィーのデザインまで依頼。シカゴ時代にユールに教えを受けた私は、その後に再会を果たしたが、この事実を知らず、一度カウフマンや落水荘の話を聞いてみたかった。次回チャンスがあれば、と考えていたところユールの訃報を知った。
 ユールの椅子が持つ木の有機的な曲線が、ライトのいう「有機性」とは異なるとしても、寝室などの私室では違和感はまったくない。むしろ自然だ。
 落水荘というのは通称で、正式には「カウフマン邸」という住宅(別荘)である。ニューヨークに帰った夜、なんともいえない満足感に浸りながら、住み手の生きざまをほんの少し残した保存の仕方も粋なはからいであるような気がしていた。

日がかりのドライブで苦労して行った価値は十分すぎるほどあった。
 が、どうしてユールの椅子がここにあるのか、帰りの車の中からそのなぞが解けないまま、魚の小骨がどこかにひっかかったような感覚を覚えていた。落水荘の完成は1938年。ユールの椅子が世に出るのは45年以後だから年代も違う。どう考えてみてもつじつまがあわない。おかしなことである。
 「そうだったのか」と、すべてを理解したのはその日の夜。余韻に浸りながらインフォメーションセンターで買った分厚い本をめくってみたときで、そこにはユールの椅子だけではない、ハードイチェアーも登場する。ここの住人であったカウフマンJr.が住んでいたときに使っていたものがそのまま保存されていたのだ。
 カウフマンJr.はユールと1950年ごろから親交を深め、ユールの椅子がことのほかお気に入りで、彼のデザインをアメリカに紹介し、何度も落水荘へ招いたという。カウフマンが国際デザイン賞(*2)を創設したとき(1960)にトロフィーのデザインまで依頼。シカゴ時代にユールに教えを受けた私は、その後に再会を果たしたが、この事実を知らず、一度カウフマンや落水荘の話を聞いてみたかった。次回チャンスがあれば、と考えていたところユールの訃報を知った。
 ユールの椅子が持つ木の有機的な曲線が、ライトのいう「有機性」とは異なるとしても、寝室などの私室では違和感はまったくない。むしろ自然だ。
 落水荘というのは通称で、正式には「カウフマン邸」という住宅(別荘)である。ニューヨークに帰った夜、なんともいえない満足感に浸りながら、住み手の生きざまをほんの少し残した保存の仕方も粋なはからいであるような気がしていた。