No.39、40 ヘリット・トーマス・リートフェルトの赤と青の椅子 1918 と ジグザグチェアー 1932〜34

先月のオットー・ワグナーから少し時代は下がり、オランダで誕生した「デ・スティル」という近代デザイン運動の中で、家具職人から建築家へと歩んだリートフェルトについて、今月は書いてみます。

ヘリット・トーマス・リートフェルトはオランダのユトレヒトに生まれ、若いころから父親の手伝いをしながら家具職人として修業の後、1917年に自らの工房を構え独立。当初は建築家P.J.クラールハーメルに教えを受けながら家具のデザインと製作に励むが、1916年ごろから三本の角材をジョイントする方法を模索する。その頃、H.G.J.スヘリング(Schelling)という施主に出会い、日頃から模索していた直交する角材を用いた家具を製作。代表作「赤と青の椅子」を生む起点となった。
「赤と青の椅子」は、1917年にオランダのライデンに誕生した芸術運動「デ・スティル」(*1)の象徴的な造形として有名であるが、30mm角の角材と10mmの厚みの背板と座版、90mm幅の二枚の肘木からなるシンプルなもの。最初に製作されたものは(*2)彩色されておらず、むしろ「デ・スティル」の影響から赤や青などで彩色されたのは1923年ごろとされる。その後1927年からはパイプを使った椅子もデザインしている。
「ジグザグチェアー」は、「赤と青の椅子」から15年近くも経ってデザインされた。ということは、ドゥースブルフ(*1)の考え方から、垂直と水平に「斜め」を加えたとも考えられ、四つの板をつなぎ合わせた一種のキャンチレバータイプの椅子。これは、同時期にパイプによるマルト・スタムやミースのキャンチレバーの影響もある。現在「ジグザグチェアー」と呼ばれ、カッシーナ社から復刻生産されたバージョンは、Z型の脚部に背板の付いたタイプに肘をつけたバージョンなど数多くの試行錯誤の結果、その中の典型的なタイプである。
リートフェルトは、また建築家として近代建築に大きな影響を及ぼした。その代表作に、2000年世界遺産にもなったシュレーダー邸(1923)がある。(*3)
デザイン:ヘリット・トーマス・リートフェルト
(Gerrit Thomas Rietvert 1888〜1964)
製造:オリジナルはファン・デ・フルーネカン
現在はカッシーナ社で復刻されている
参考文献:ダニエーロ・バローニ、リートフェルトの家具、
A.D.A.EDITA Tokyo Co., Ltd.
リートフェルト展図録、宇都宮美術館他 、2004年
*1:デ・スティルは、1917年オランダのライデンで、テオ・ファン・ドゥースブルフ(Theo van Doesburg 1883 〜1931)が創刊した雑誌の名前で、この雑誌によって結びついた画家やデザイナーのグループとその活動をいう。リートフェルトもそのメンバーとして活動。
*2:「デ・スティル」2巻11号(1919)に掲載された。
*3:シュロイダー邸をはじめとする建築、また「デ・スティル」については、多くの参考書があるので参考にされたい。

直線と矩形で形づくったモダニズムのイコン
リートフェルトの「赤と青の椅子」。モンドリアンの絵を見るようで、明快だ。
座ることこそないが、直線と矩形が織りなすモダニズムのイコンとして、いろいろな場面、とりわけ教育の場で使わせてもらった椅子である。
だいぶ昔の話になるが、ある日、ごみ溜めのような学生の実習室へ行くと、その片隅に色鮮やかな「赤と青の椅子」が置いてあった。横にいた学生が得意そうに「作りました」と言う。学生のことだから「ダボ」を使ってまではいないと思われたが、一瞬、資料室のものを持ち出してきたのではないか、と見まちがうほど塗装してあるので本物そっくりだ。本物とは、当時われわれの学科の資料室にあったカッシーナで復刻されたものをいうのだが、これもプロが作ったコピーに違いない。
近代デザイン史に登場する椅子の中で、図面もあるし、ベニヤ板と角材があれば、木工技術のない素人でも簡単にコピーを作ることができる。こんな椅子はほかにない。唯一この椅子だけだ。リートフェルトは家具職人だから素人の作ったものと比較するのは失礼だが、接着剤が発達した現在では作るのにさほど難しいものではないし、費用もそれほど必要としない。
「赤と青の椅子」は、今日まで、オランダのライデンで1917年に起こった芸術運動「デ・スティル」の象徴的な存在となっているが、原形は角材の寸法も33ミリ角で、側面にパネルが付いていて、赤や青に彩色されたのは後のことであったという。
歴史に名を刻んだこの頃の建築家は、まず「考え方(思想)ありき」からスタートしてモノや空間をデザインしたが、リートフェルトは違う。自らの工房を持ったときから常に手で模索しながら思考していたのではなかったか。そして、たまたま作った試作的なものが、「デ・スティル」という造形運動の考え方に合致して採り上げられ、一気に広告塔の役割を担う造形として脚光を浴び、彼自身も当初は戸惑ったのではないか、と私は以前から憶測していた。その意味で、終生家具職人として手で思考したとする一面を捉えた、2004年に宇都宮美術館他で開催されたリートフェルト展は、私にとって示唆に富む企画であった。(*1)
それにしても、リートフェルトが近代デザイン史の上に大きな一石を投じることができたのは、二人の施主の存在であろう。一人は、およそ機能的でもなく、当時としては風変わりなだけのリートフェルトの家具を買い支えたH.G.J.スヘリング。もう一人は、この人がいなければあのシュレーダー邸も目にすることができなかったと思われるシュレーダー夫人である。いつの時代においても、先駆的な仕事には理解者の存在が不可欠だが、一介の家具職人であった当時のリートフェルトにとってなんともありがたい存在であったのか。オランダでリートフェルトが仕事相応の評価を受けだしたのは80年代になってからだという。(*2)が、そんなオランダの情況を考えるとなおさらである。
1950年ごろから、われわれが広く目にしたり、デザインで評価を受けた椅子は、ある程度の需要が見込まれることを前提として計画生産(家具の場合、量産というよりは計画生産というべき)される企業の製品が多くなり、市場性が重要な要素となったが、20世紀初頭では、それほど特別でない一人の目利きが、時代を創るクリエーターを育てることができたのだ。これもリートフェルトの力なのだ、と思うが、なんと素晴らしい出会いであったことか。
加えて、これを書きながら、もし第一次世界大戦勃発から1925年ぐらいの時期に、ヨーロッパ、とりわけドイツ周辺で青年期を迎え、デザインという世界に足を踏み入れていれば、どれほど興奮しただろうか、そして私は何ができたのか、と想うことしきりであった。
*1:橋本優子、リートフェルト—その職人性と造形感覚、リートフェルト展図録、宇都宮美術館 他 2004年 P.25〜40 にリートフェルトの家具デザインとその背景に関して、詳しいので参考にされたい。
*2:イダ・ファン・ゼイル、リートフェルト:その生涯、業績、そして重要性についてのスケッチ、前掲図録 P.12