No.49 イームズのタンデム・シーティング 1962

このコラムをはじめて四度目の新年を迎えました。今月から数ヶ月、アメリカで経験したことを書きますが、新年は60年代、飛行機による輸送手段が飛躍的に発達したころ、空港のロビーに颯爽と登場したイームズのタンデム・シーティング。公共空間のベンチとして20世紀を代表するもので、思い出とともに書いてみます。

ここでとりあげたタンデム・シーティング(正式にはTandem Sling Seating (*1)であるが、以後は略してETSという)は、 空港を設計しようとする二人の建築家からの要望で誕生した。 サーリネンとC.F.マーフィー事務所である。サーリネンはワシントンのダレス空港、マーフィー事務所はシカゴのオヘア空港を設計するにあたり、空港ロビーという公共性から強度など多くの条件を満たした上で、近代の空港にふさわしいデザインのベンチをハーマン・ミラー社のロバート・ブレイク(*2)に依頼したことからこのプロジェクトはスタートした。空港が新しい時代を迎えようとしていたときである。
ただ、サーリネンはイームズと同窓であることから、1958年ごろすでに個人的に話を進めていた、という記録もある。
ETSの構成は、一列のものと背中合わせのものがあり、それぞれ二席から十席まで連結が可能なシステムである。構造は、イームズが1954年にスタジアムなどのためにT型のビームで椅子を連結するシステムを開発しているが、これをベースとして、1958年のアルミナムグループで用いたアルミダイキャストのフレームの座や背に、ビニールフォームをノーガハイドでサンドイッチし、熱でシールされたシートパッドを張るというつくり方を踏襲している。ただ、公共空間での使用に耐えるためにその強度が一番の問題となった。このため、シートパッドは15,000回ものテストを重ねた上でようやく製造に移され、オヘアとダレスの空港に颯爽と登場した。(*3)これ以後、アメリカの空港のロビーがこの椅子とともに変わった、と言っても過言ではない。
近代の椅子のデザイン史には、公共空間の椅子も当然入れるべきで、60年代の初めに登場したETSをその代表としてとりあげた。個人で使う椅子ではないので、忘れられがちであるが、40年以上経った現在でも、公共空間で色あせないイームズの傑作である。
デザイン:チャールズ・イームズ(Chares Eames)
製造:ハーマン・ミラー社(Herman Mirror)
*1:タンデム・シーティングとは連結された椅子のことをいうが、FRPのシェルを使ったTandem Shell Seatingもある。これと区別して、アルミのフレームに座と背をノーガハイドで張られたものをTandem Sling Seating という。
ハーマン・ミラー社ではイームズのEを頭につけてETS(Eames Tandem Seating )と呼んでいる。
*2:ロバート・ブレイク(Robert Blaich)は筆者が1965年ハーマン・ミラー社を訪れたときのデザイン部長で、後にフィリップ社に移り、ICSID などでも活躍。
*3:John Neuhart Marilyn Neuhart Ray Eames,Eames design,Harry N.Abrams,Inc.,背に、ビニールフォームをノーガハイドでサンドイッチし、熱でシールされたシートパッドを張るというつくり方を踏襲している。ただ、公共空間での使用に耐えるためにその強度が一番の問題となった。このため、シートパッドは15,000回ものテストを重ねた上でようやく製造に移され、オヘアとダレスの空港に颯爽と登場した。(*3)これ以後、アメリカの空港のロビーがこの椅子とともに変わった、と言っても過言ではない。
近代の椅子のデザイン史には、公共空間の椅子も当然入れるべきで、60年代の初めに登場したETSをその代表としてとりあげた。個人で使う椅子ではないので、忘れられがちであるが、40年以上経った現在でも、公共空間で色あせないイームズの傑作である。

60年代、アメリカらしさの象徴
その日は、1965年9月3日。生まれて初めて飛行機に乗り、まわりはすべて外国人のなかで一晩中緊張の連続。ろくに眠ることもできずにハワイという異国の地を踏んだ日である。
時を知らせる鐘の音がなんとものんびりと響く木造のターミナルビル。(*1)いまや巨大で、日本人観光客でごった返すハワイの空港を見ると隔世の感を覚えるのだが。
おのぼりさん気分でニューヨーク博(*2)を見て歩いた後に着いたのがシカゴのオヘア空港。当時、一日の離着陸数で世界一といわれ、滑走路に降り立ったかと思うまもなく次から次へと飛来する飛行機の多さに、これがアメリカなのか、と丸い窓からそのスケールに度肝をぬかれたが、「EXIT」を出るなり予期せぬことが起こった。見知らぬアメリカ人に「ヤマウチか?」と声をかけられ、びっくり仰天。なんと大学の関係者が願書に貼った私の写真を持って迎えにきてくれていたのだ。そういえば、日本を出るとき「シカゴに着く日時と飛行機の便名をできたら知らせるように」というのがあったことを思い出した。
拿捕されるように車に乗せられ、右も左もわからぬうちにダウンタウンのステーキハウスへ。そこでご馳走になった藁草履のようなステーキは見たこともない、もちろん食べたこともない大きさ。銀紙に包まれた拳ほどもある大きなベイクドポテトの味も忘れられない。アメリカという国はなんという国か、翌日から待ち受けている不安な生活もどこへやら、シカゴでの初日はまるで操り人形のような状態で、驚きの連続で暮れた。いまの日本で、大学が留学生を迎えに空港へ行き、食事までご馳走するなど考えることすらできないが、アメリカという国の「とんでもないスケールという水」を頭からぶっかけられたような初日であった。さらに加えて、空港出口に連れていかれる途中、一度見てみたいと憧れていたタンデム・シーティングを横目で見ることができ、感激という言葉を超えて興奮していた。雑誌でしかお目にかかることのできなかった世界がこれから現実のものとなる。こんな期待が駆け巡った一瞬であった。
現在の空港は単なる交通手段の場所でしかなく、「旅情」などという言葉とは無縁になってしまったが、あのころの空港は行き交う人々の表情も服装も今とはまるで違う。ニューヨークTWAの空港で、20年後の情景と定点観測的に記録したことがあるが、2枚の写真を見ればその違いは明らかで、60年代の方には着飾った婦人の姿はあっても、ジーパン姿の人影はない。ジャンボという大型旅客機の出現と運賃の低価格化が移動手段をバスや鉄道から飛行機に、そして空港の様相を一変させた。
タンデム・シーティング誕生の契機となったワシントンのダレス空港へも、どうしても見たくて夏休みを利用して行った。そのとき空港ロビーになぜか旅行客がいないゴーストタウンのような異常な状態。そのわけについてここで書く紙幅もないが、誰もいない移動待合室(*3)やサーリネンのチューリップチェアのあるレストラン。もちろんイームズのタンデム・シーティングもいやというほど一人で満喫した。真昼間に空港丸ごと独り占めできたことなどいまだに信じられないし、二度とありえない体験であろう。
当時の空港はアメリカらしさに満ち、どこかカッコよかった。貧乏留学生にとって非日常的雰囲気を味わうためには空港という場所は手ごろで、ぶらりとオヘアへ出かけタンデム・シーティングに腰をおろして行き交う人を眺めてすごしたしたこともあった。
以来40年、イームズのタンデム・シーティングにあちこちで出会うたびに、60年代のアメリカらしさの象徴として、シカゴに着いた最初の日の記憶がよみがえる。
*1:翌日、ハワイから西海岸へ行くローカル線の空港ロビーは木造であった。
*2:ニューヨーク博は、1964年と65年の二年にわたって4月から10月に開催された。イームズとサーリネンのデザインによるIBM館は万博史上に残る名パビリオン。
*3:サーリネンの設計によるこの空港にはサテライトがなく、メインビルに接続された異動待合室が飛行機まで客を運ぶという画期的なシステム。