No.50 ジョージ・ネルソンのマシュマロソファ 1956

先月からアメリカに舞いもどってきたので、イームズとともにアメリカのミッドセンチュリーを代表するデザイナー。私の師匠であるジョージ・ネルソンについて、50回目の節目として書いておきます。

ジョージ・ネルソンは、コネティカット州のハートフォードで生まれ、エール大学で建築を学び、ローマ賞を得てイタリアで学ぶ機会を得る。その間にコルヴィジェやミースにも出会いヨーロッパの近代デザインの萌芽に接し、帰国後、雑誌「アーキテクチャル・フォーラム」などの執筆・編集を通してヨーロッパでの近代デザインの潮流をアメリカに紹介・導入した。
このように、ネルソンは終生、単なるデザイナーというよりデザイン思想家でもあった。作品集ではない多くの著書があることは、なにより書くことの好きなネルソンという人物をよく物語る。
イームズをハーマン・ミラー社へ引き入れたことをはじめ、旧ソ連などへアメリカ政府のプレゼンテーターとして、アメリカのモダンデザインの発展にとって欠かすことができなかった人である。晩年は環境問題など社会問題にも取り組み、アメリカのみならず世界のデザイン界にも影響を与えた。1947年にニューヨークに事務所を開設し、ハーマン・ミラー社のデザインディレクターとしてのマネジメント活動とともに、初期の仕事として収納関係の家具、プラットフォームベンチ(1946)やバブルランプ(1952)などがある。
マシュマロソファは、所員のアービング・ハーパー(*1)によって1954年にデザインされた。ハーパーによると、「あるとき化学会社のセールスマンが技術的アイデア(今で言うスキンレスのウレタンホーム)を売り込みにきたが、直径が10から12インチが限界であった。そこで、週末に18個をスティールのフレームに乗っける図面を書いたところ、すぐにプロトタイプにまわされたが、この技術がうまくいかず、最後は手づくりとなった」と。(*2)その結果コストが高くなり、200近くをつくっただけで製造は打ち切られた。これと同時代の事務所の仕事としては、やはりアービング・ハーパーがデザインしたハワード・ミラー社の時計。(*3)椅子では有名なココナッツチェア(1956)とスウェイジド・レッグチェア(1958)やモジュラー・シーティング・システム(1956)などがあり、いずれもネルソンの代表作になっている。
デザイン:ジョージ・ネルソン(George Nelson 1908〜1986)
製造:ハーマン・ミラー社(Herman Miller)*1:アービング・ハーパー(Irving Harper 1916〜)は1947年から63年までネルソン事務所に勤め、このころの数々のデザインを通してネルソンのよきパートナーであった。*2:Paul Makovsky,Vintage Modern,Metropolis,June 2001
*3:ハワード・ミラー社(Haward Miller)はハーマン・ミラー社の兄弟社で、時計のほかバブルランプやプロントポスターなども製作。ブルランプ(1952)などがある。
マシュマロソファは、所員のアービング・ハーパー(*1)によって1954年にデザインされた。ハーパーによると、「あるとき化学会社のセールスマンが技術的アイデア(今で言うスキンレスのウレタンホーム)を売り込みにきたが、直径が10から12インチが限界であった。そこで、週末に18個をスティールのフレームに乗っける図面を書いたところ、すぐにプロトタイプにまわされたが、この技術がうまくいかず、最後は手づくりとなった」と。(*2)その結果コストが高くなり、200近くをつくっただけで製造は打ち切られた。これと同時代の事務所の仕事としては、やはりアービング・ハーパーがデザインしたハワード・ミラー社の時計。(*3)椅子では有名なココナッツチェア(1956)とスウェイジド・レッグチェア(1958)やモジュラー・シーティング・システム(1956)などがあり、いずれもネルソンの代表作になっている。

指揮者としてのネルソン、そのベストデザインは?
マシュマロソファ。あまり真面目に対峙しなかったから、取り上げるべきでないかもしれない。が、このところのあまりに大きな評価に動かされたというのが本音で、やっぱりこのあたりで書いておくことにしよう。
この椅子に初めて出会ったのはアメリカではなく日本で、しかもつい何年か前、復刻されて入ってきたときのことである。恥ずかしい話ながらそれまで存在すら知らなかった。出会った途端、正直なところ、これはネルソンのジョークで駄作だ、と思ったし、にわかには信じられなかった。
というのも、ネルソン事務所にいた1966年ごろはハーマンミラーのショールームに姿はなく、カタログにも見ることはできなかった。61年に製造中止になっていたのだから当然だが、まだある。実はネルソン事務所のそれまでの仕事をプレゼンテーションした事務所の玄関ホールにも見ることができなかった。存在までも一時消えていたのだから、ネルソン事務所にいながら知らなかったのもわかっていただけるであろう。
マシュマロソファはアービング・ハーパーによって1954年にデザインされたのだから、ポップアート全盛期以前に生まれ、ポストモダニズムの時代を超え、40年経って、ネルソンの死後評価が出たことになる。(*1)絵画の世界ではままあることだが、モノ(商品)の世界では稀有なこと。「時のいたずら」というべきかも知れない。多分ネルソンも笑っていると思うのだが。それとも「当然だよ、お前はわかっていない」と言うのだろうか。
だが、このソファはデザインしたアービング・ハーパーが言うように、発想の動機と展開が思いつきで、1963年に同じネルソン事務所がデザインしたスリングソファ(*2)とは完成度において比較にならない。粗野で、特に背面は美しくない。
だが、現在の評価はアメリカのミッドセンチュリーの象徴的なデザインとして一部の評論家とジャーナリズムが煽動するので、それにつられた若いマニアの人たちが「かわいらしい」と言って、使用するというより現代の骨董品のように買うのだという。リートフェルトの時代のモノならわからないでもないが、1950年代半ば、ミッドセンチュリーといっても近代デザインが定着して以後のもの。どうしてこれほど評価されるのか評論家に聞いてみたい気がしている。
椅子という「モノ」の持つ意味の多様性がここにあるのだろうか。
50年代の末にデザインを学び、60年代アメリカンデザイン最盛期にバウハウスの流れにあるIITという少し特殊なところで学び、ネルソン事務所に在籍した私にとって、ネルソンの仕事としてマシュマロソファと時計にのみスポットが当たる現象には今も理解に苦しんでいる。もう20年ぐらい経てば素直に理解できるかもしれないが、60年代がまだまだ現実的な現象として私の中で生きているからだ。
いずれにしても、ネルソンのやった仕事は、彼自身の文筆や講演活動は除くとしても、建築からインテリア、プロダクト、展示デザインからグラフィックと幅広く、その造形手法はイームズとは大いに異なる。イームズは全てに自ら手をくだしたデザイナーだが、ネルソンは社会やモノのあるべき姿を構想し、事務所の所員の力を生かして「かたち」にしたディレクターである。終生、彼は「ジョージ・ネルソンという交響曲」を奏でた指揮者であった。
1957年という初期に「ネルソンのベストデザインはネルソン自身である」と言ったアーサー・ドレクスラーの言葉はけだし名言である。(*3)
*1:アメリカのポップアートに影響を与えたなどという評論家の意見もあるが、少ない生産数で存在すら明確でなかったものが影響を及ぼしえたであろうか。
*2:「家具タイムズ」622号参照。
*3:ネルソンの著書「Problems of Design」の序文の最後に、当時のMOMA の建築・デザイン部門のディレクターであったアーサー・ドレクスラー(Arthur Drexler)が書いている.。