No.66 ブルーノ・マットソンの「エヴァ」 1934

先月のアスプルンドで、スエーデンへ来たので、ちょっと昔話になりますが、40年前この地で出会ったブルーノ・マットソンの出世作「エヴァ」について今月は書きます。

ブルーノ・マットソンはスエーデン・ヴァルナモの家具職人の家に生まれ、幼少時から父親のカール・マットソン(Karl Mathosson)に家具職人としての教育を受ける。
マットソンは独自に木を曲げる技術(成型合板)を開発し、モダンな造形に生かそうとしていた。折から開催されていたストックホルム博覧会(1930)を観る機会に恵まれ大きな刺激を受ける。翌年、ヴァルナモの病院に樺の堅木のフレームにテープを張った椅子を提案するが、病院のスタッフからは「バッタ」と呼ばれ不評であった。しかし、この椅子がきっかけとなり誕生したのが彼の出世作「エヴァ、Eva」である。
「エヴァ」は背から座へと連続した成型合板のフレームにテープを縦と横に交差させて張り、脚部も成型合板の曲線で構成された優美な椅子。快適さの追求と同時に曲線の造形美をあわせ持ち、家庭はもちろん公共空間にも適応する「スウェディッシュモダン」(*1)を代表するデザインとなった。1936年にはゴーデンブルグでの個展で評価を得て、1937年のパリ万博に出品しスエーデン以外でも知られることになったが、1939年のサンフランシスコとニューヨークの展覧会を契機にアメリカでも高い評価を得た。
ほぼ同時期にアルバー・アアルトも成型合板のフレームにテープを張った椅子をデザインしているが、フィンランドとスエーデンの地理的関係からも、お互いになんらかの影響があったのかもしれない。
その後、マットソンは今でいう人間工学的な視点から「座り心地」を研究し、「エヴァ」を発展させた「ミランダ、Miranda」をはじめ多くのバージョンをデザイン。その他にも、フレームに金属を用いた椅子などもデザインしている。
第二次大戦後(1945)は建築の仕事に専念し、多くのヴィラなどを設計するが、1958年デンマークのピエット・ハインと協同して、フリッツ・ハンセン社で甲板がスーパー楕円形のテーブル(1964)をデザインする。(*2)
1974年9月には東京でブルーノ・マットソン展が開催され来日。その後、天童木工で製品化された椅子(セクショナルタイプとハイバックタイプ)は和室になじむ造形(畳擦り)とフレーム断面にも丸みが出て、しなやかさを増した名品。現在でも天童木工から製造・販売されている。
デザイン:ブルーノ・マットソン(Bruno Mathsson 1907〜1988)
*1:先月のアスプルンドによる1930年のストックホルムの博覧会はスエーデンをはじめ北欧の近代デザイン確立の契機となったが、スエーデンのデザインをこの前後で区別し、これ以後の機能主義による近代デザインを「スウェディッシュモダン」という。
*2:スーパー楕円については「家具タイムズ」662号のCharles Pollock の項を参照。

時を超えたしなやかなシルエット
薄明かりのなか、「エヴァ」のしなやかなシルエットが突如浮かびあがった。陰影礼讃でもないが、薄暗さ故の際立ちであったのかもしれない。
もうかれこれ40年以上前のこと。マドリッド・マイヨール広場横のカフェテリアで、隣の席にいた若いカップルが広げていた本は『ヨーロッパ、1日5ドルの旅』だと表紙の絵柄ですぐにわかった。私も同じ情報でその場に居合わせていたのだから。
今日の物価を考えると、あのころの5ドルがどれほどの貨幣価値があったのか、それを言うのは難しいが、およそ今の5,000円か、もう少し多いぐらいか、と思う。 ともあれ、一日5ドルでヨーロッパを旅行する方法というガイドブックが当時のアメリカで旅行案内書のベストセラーになっていた。現在、若者の間で愛用されている「地球の歩き方」と異なるのは、いい年をした大人が利用し、「いかに安く、楽しい旅をするか」というコンセプトで、経験談として自慢話風に語られていていかにもアメリカ人らしい旅行に対する価値観。私にとっても貧乏旅行中の辞書として重宝していた。そのころ日本で出ていた旅行案内書は日本交通公社から出ていた、アメリカとヨーロッパに分冊された1センチぐらいの厚みのものが唯一。 ヨーロッパ編では主要都市の概要に観光名所とホテルぐらいしか記載はなく、ほとんど使い物にならない代物。5ドル旅行の本のおかげでリーズナブルな旅をすることができたし、なにより会話に困るヨーロッパで同じ本を持つアメリカ人と出会う機会も得た。相席のカップルとも。
お互い食べるものが終わりかけたころ目線が会い、ゆきずりの言葉を交わすうちに旅行談義になった。男の方は医者で、テキサスの大学からノーベル財団の奨学金を得てスエーデンに留学するのを契機に結婚。 休みを利用して、ちょっと遅れたハネムーンにヨーロッパを旅行中だという。旅行の価値観を共有したからか、突然、「ストックホルムへ来る予定はないのか、来るならオレの家に来いよ」と、電話番号を書いたメモをくれた。それから1ヶ月。ヨーロッパ風顛旅行の最後の街コペンハーゲンから帰国する前日、彼らに会うためだけの目的でストックホルムへ。夕方、着いた安ホテルから電話をして迎えに来てもらい、奥さん手作りのミートローフをご馳走になった。だが、私にとってもう一つのご馳走というかデザートは、帰りがけ部屋を出た薄明かりの廊下の片隅で古びた「エヴァ」に出会ったことだ。 大学の寮なのか、アパートなのか、それも定かではなかったが、「ホテルまで送るよ」という彼の言葉を少し制止して黙って座ってみた。怪訝そうに私を眺める彼ら。その後数回クリスマスカードのやりとりをしたが、いまはどうしていることか。以来、マットソンの椅子に出会うたびに、偶然が重なりあった彼らとの3時間ほどの交流を想いだす。
昨夏、ストックホルムで彼らの住まいや街のありようなどを思い出そうとしたが、彼らに会うためだけにストックホルムを訪れた1日だけの旅。彼の車でホテルとの間をあたりが暗くなって往復しただけではわかるはずもなかった。唯一つ、その翌朝ホテルを出て飛行機の時間を気にしながら駆け足で見たストックホルムの市庁舎(*1)。その美しさだけは40年を経てもまったく変わってはいなかった。
「エヴァ」にはじまる優美な曲線で数多くのバージョンをデザインしたマットソン。晩年になるほどフレームの断面にも丸みが出てしなやかさを増した一連の椅子は、昨今の椅子にはない手のぬくもりとともに上品さをあわせ持ち、優雅さを感じさせる20世紀の名品である。
遅れたハネムーンにヨーロッパを旅行中だという。旅行の価値観を共有したからか、突然、「ストックホルムへ来る予定はないのか、来るならオレの家に来いよ」と、電話番号を書いたメモをくれた。それから1ヶ月。ヨーロッパ風顛旅行の最後の街コペンハーゲンから帰国する前日、彼らに会うためだけの目的でストックホルムへ。夕方、着いた安ホテルから電話をして迎えに来てもらい、奥さん手作りのミートローフをご馳走になった。だが、私にとってもう一つのご馳走というかデザートは、帰りがけ部屋を出た薄明かりの廊下の片隅で古びた「エヴァ」に出会ったことだ。 大学の寮なのか、アパートなのか、それも定かではなかったが、「ホテルまで送るよ」という彼の言葉を少し制止して黙って座ってみた。怪訝そうに私を眺める彼ら。その後数回クリスマスカードのやりとりをしたが、いまはどうしていることか。以来、マットソンの椅子に出会うたびに、偶然が重なりあった彼らとの3時間ほどの交流を想いだす。
昨夏、ストックホルムで彼らの住まいや街のありようなどを思い出そうとしたが、彼らに会うためだけにストックホルムを訪れた1日だけの旅。彼の車でホテルとの間をあたりが暗くなって往復しただけではわかるはずもなかった。唯一つ、その翌朝ホテルを出て飛行機の時間を気にしながら駆け足で見たストックホルムの市庁舎(*1)。その美しさだけは40年を経てもまったく変わってはいなかった。
「エヴァ」にはじまる優美な曲線で数多くのバージョンをデザインしたマットソン。晩年になるほどフレームの断面にも丸みが出てしなやかさを増した一連の椅子は、昨今の椅子にはない手のぬくもりとともに上品さをあわせ持ち、優雅さを感じさせる20世紀の名品である。*1:ストックホルムの市庁舎は、ラグナル・エストベリ(Ragnar Ostberg 1866〜1945)の設計で1923年に完成。ナショナルロマンティシズムの最高傑作で北欧で最も美しい建築とされている。日本の建築家、なかでも村野藤吾らに与えた衝撃は大変なものであった。