No.82 マルセル・ブロイヤーのワシリーチェア 1925

ミースのMRチェアが先になりましたが、今月と来月、2回にわたりマルセル・ブロイヤーです。近代デザイン史上、真っ先に書かねばならない椅子かも知れませんが。

 マルセル・ブロイヤーは1902年ハンガリーのペーチに生まれ、ウイーンで美術を学ぼうとするが、バウハウス(*1)の設立を知り入学。卒業後は家具工房の責任者となり、鋼管(金属パイプ)という素材に注目して多くの家具をデザインし、バウハウスを語るときには避けて通れないデザイナーである。
 その後はイギリスにも渡るが、1937年グロピウスに招かれアメリカへ。ハーバード大学の教授(*2)も勤めたが、アメリカへ渡って以後は住宅から大きなプロジェクトまで建築家として活躍。20世紀のアメリカを代表する建築家の一人である。建築の代表的な仕事には、パリのユネスコ本部(1952)やホイットニー美術館(1966)などがある。
 だが、ブロイヤーの原点は家具である。バウハウス時代からイギリスを経てアメリカに渡るまで数多くの家具をデザインしている。椅子では、学生時代には木を素材として「デ・スティール」に影響を受けた肘掛椅子(1924)があるが、1925年に椅子の歴史に新たな扉を開いたアームチェア(1962年になってワシリーチェアと名付けられた)をデザインした。これは自転車のフレームからヒントを得て鋼管を椅子に使うことを思いついたという話は有名で、それも屋内用の椅子として鋼管を使用したことは当時として画期的なこと。ワシリー・カンディンスキー(*3)が愛用したとして名前にまでなった。この時期これ以外にも鋼管を使った家具を数多くデザインしており、家具の素材として鋼管を使ったパイオニアである。
 「ワシリーチェア」と呼ばれる椅子は1925年のアームチェアをオリジナルとして順次発展し、多くのバージョンがある。一般的には1927から28年のトーネット社のスタンダードモデル「B3」を完成形とすべきだが、1962年にガヴィーナ社で計画生産することになったバージョン(*4)はブロイヤーがディーノ・ガヴィーナ(*5)とコミュニケーションを重ねた結果で、これを最終の形とすべきであろう。鋼管のユニークな構成と革の対比は誕生から100年近くになるが見事なデザインで、鋼管を使った室内用の椅子として「モダンデザイン」を具現化したバウハウスのイコンである。
デザイン:マルセル・ブロイヤー(Marcel Breuer 1902〜1981)
製造: 当初はスタンダルト・メーベル社で、その後トーネット社でも作られ、1960年以後はガヴィーナ社(Gavina)とその後はノール社(Knoll)、現在はトーネット社

パイプが生んだバウハウスのイコン
 1966年の秋。ニューヨークは「ホイットニー」という新しい美術館(*6)のオープンで湧き立っていた。
 それは、なんといっても「よそもの」でない自国の現代美術のコレクションであったからであるが、私にとっての関心事はなにはさておき「ブロイヤーがどんな美術館をデザインしたのか」が第一。展示作品では、ウォホールでもラウシェンバーグでもなく、もちろんオキーフでもない。学生時代から興味を持っていたリー・ボンテクー(*7)であった。
 することもない日曜日の昼下がり、柿落としの展覧会を見るために当時住んでいた西側からセントラルパークを横切って歩いて行くと、突如75丁目の角で大きな窓のある三層の巨大な壁(ホイットニー)がマディソン街にかぶさるように迫ってきた。これこそがキャンティレバー(*8)である。ブリッジを渡り中に入ると、チケット売り場では興奮した多くのアメリカ人でごった返していた。
 このときのことを書けばいろいろ想い出すことが多すぎる。エントランスホールの照明器具を並べた天井のデザインから窓枠で切り取られた一枚の絵のように見える借景のニューヨークシーン。その横に対比するように並んでいたリー・ボンテクーの作品。さらに、アメリカ現代美術全盛時代の量と迫力に圧倒されたことなどきりがないので、この数ヶ月前に初めて座ったバウハウスのイコンである「ワシリーチェア」の話にしよう。
 座ったのは家具屋の店先。「これがあのワシリーチェアか」と興奮したのを覚えている。
 この椅子が戦後の日本で公の場に初めて姿を現したのは1957年の「20世紀のデザイン展」(国立近代美術館)(*9)で、いま見るものとは異なり、座や背に黒のキャンバスが張られたトーネット社のモデル。以来、永く見ることも座ることもできなかったが、突然出会ったのは革で張られた立派なバージョン。座ってみると尻が滑り落ちるぐらいシート下がりがとんでもなく大きく、立ち上がるのに苦労した。当時は知識も情報もなく、このとき座ったワシリーチェアはノール社の製品であると信じて疑わなかった。
 まったくわからなかったが、この椅子がノール社のものではなく、コピーだとわかったのは少し後のことで、あまりに値段が安すぎたからだ。
 当時からコピーが出回っていたのだから、それ以後もどれだけのコピーがつくられたかはかりしれない。これまであちこちで安いワシリーチェアに出会ってきたし、昨今ではライセンスの切れたものは誰でもつくれるからこれを「コピー」とは言わず、薬品と同様に「ジェネリック品」とも言うのだそうだ。正々堂々と「ブロイヤーのデザインだ」と明記したレプリカである。
 もともと、ワシリーチェアは1925年のアームチェアをオリジナルとしていくつものバージョンがあるが、1925年という時期にこれほど個性的な造形ともなると、他の椅子のひどいレプリカというか、まがい物とは別で、全てブロイヤーの「ワシリーチェア」といってもよいのではないか。というのも、この椅子はパーツの数も限られ、その上製作するのに金型など設備投資を必要としない。フレームはたった6種類のパーツ(パイプ)をジョイントするだけで、寸法を守り、ディテールを少し慎重に扱えば、オリジナルといってもよいレプリカをつくることは現在の技術ではいとも簡単である。
 1925年、ブロイヤーが鋼管という素材を室内用の椅子として初めて提示したワシリーチェア。その後、どれほど質の悪いコピーやレプリカが出回ろうとも、また出回れば出回るほど、バウハウスのイコンとして記録に残り続ける椅子である。
*1:バウハウス(Bauhaus)は1919年ドイツのワイマールに設立されたデザインの教育機関で、近代デザイン史上に多大の足跡を残した。あまりにも有名で、多くの文献・資料があるので参考にされたい。
*2:ブロイヤーに影響を受けた建築家は多い。I.M.ペイ、フィリップ・ジョンソン、ポール・ルドルフなどのほか日本の芦原義信がいる。
*3:ワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky 1866〜1944)は、20世紀の抽象絵画を代表する画家。バウハウスに招かれ講義や実習を担当した。 
*4:1925〜28年の間に5種類ものバージョンがあった。1962年にガヴィーナがニューヨークでブロイヤーに会ってつくることになった(後にノール社の製品となる)のは、1927年の二番目のバージョンをもとに6個のパーツを溶接ではなくねじ止めして組み立てることとし、仕上げもニッケルメッキからクロームメッキに、座や背が革になった。名前が「ワシリーチェア」となったのもこのときである。
Vitra Design Museum, Marcel Breuer Design and Architecture, 2003, PP.150〜152. 
*5:ディーノ・ガヴィーナ(Dino Gavina , 1922〜)は1950年イタリア・ボローニアに家具会社を創設し、多くの著名なデザイナーの家具を製造する。また、1961年には照明器具で有名な「FROS」も設立。
*6: Whitney Museum of American Art は1930年に開館したアメリカの美術をコレクションとする美術館。1966年にマルセル・ブロイヤーの設計で新館がニューヨークのマディソン街75丁目にできた。20世紀のアメリカ美術のコレクションで有名。(945 Madison Ave.75st.)
*7:リー・ボンテクー(Lee Bontecou 、1931 〜)は、あまりなじみがないと思われるが、50〜60年代に彫刻的立体絵画で活躍したアメリカの女性作家。筆者は学生時代に彼女の作品にひかれ、アメリカへ行ったら是非見てみたいと思っていた。
*8:キャンティレバー(cantilever)とは、部材の片側だけが固定されて他方が固定されず自由になっている構造のこと。建築では片持ち梁のことをいうが、椅子ではスタムやミースが1927年ごろに、ブロイヤーも同じころ競ってデザインした後ろ脚のない構造の椅子を総称して「キャンティレバータイプの椅子」という。
*9:1957年の2月20日から3月31日まで国立近代美術館と朝日新聞社の主催で開催された「20世紀のデザイン展」は、ニューヨーク近代美術館が蒐集したヨーロッパやアメリカの優れたデザインの日用品や家具を初めて見ることのできた画期的な展覧会。椅子ではミースやル・コルビュジェ、イームズの椅子などが展示された。