No.83 マルセル・ブロイヤーのチェスカチェア 「B32」と「B64」1929

先月に続きブロイヤーです。それもキャンティレバータイプの椅子の中で最も広く知られた「チェスカチェア」で、モダンデザインの、時代精神の産物です。

 鋼管によるキャンティレバータイプのオリジナル問題はさておき、チェスカチェア(*1)はキャンティレバータイプの椅子として、1970年代末ごろまでこれほど普及した椅子はない。コピーも含めて膨大な数が世界中で供されてきたことから1920年代後半に競って誕生した時代精神の産物として、椅子の概念を劇的に変えた代表である。日本でも60年代、東南アジアからの籐張りの座や背のパーツを輸入してつくったコピーを含め、「キャンティレバータイプの椅子といえば、チェスカチェア」という時期があった。
 だが、鋼管によるキャンティレバータイプのオリジナルを提示したのはマルト・スタム(*2)とされ、スタムとの間でオリジナルをめぐって訴訟沙汰もあり、ブロイヤーは敗訴するが、彼もそれ以前の1925年に直径20ミリのパイプであったので強度の点で完成しなかったもののキャンティレバーのスツールをデザインしている。その上、チェスカチェアの肘掛タイプ「B64」は一筆書きのような肘部へのパイプの回し方と鋼管の冷たさを補う木枠に籐張りの座や背と木の肘による構成はブロイヤー独自のもの。キャンティレバータイプの名品である。
 ブロイヤーは家具デザインを、木、鋼管、アルミ、成型合板の四種類を素材順にコンセプトを変えて展開させており、これほど時間軸で素材を捉え発展させたデザイナーはいない。初期の木による肘掛椅子(1922)は「デ・スティール」(*3)の考え方に影響を受けたもので、ワシリーチェアに始まる鋼管の家具はモダンデザインの象徴。30年ごろには低コストという点から椅子の素材としてアルミにも取り組み、1933年にはル・コルビュジェやグロピウスらが審査員となってフランスで開催された「アルミ家具国際コンクール」(*4 )で一等賞を得た。代表的な椅子はスイスのエンブル社で製品化されたシェーズロングで、その後成型合板でもリ・デザインされ、一時アメリカのノール社からも発売されていた。
 チェスカチェア、中でも「B64」の肘付のバージョンは三種類の素材を使い、普及という点で20年代に誕生したキャンティレバータイプの肘掛椅子を代表する椅子。
デザイン:マルセル・ブロイヤー(Marcel Breuer 1902〜1981)
製造: 当初はゲブリューダ・トーネット社、1962年以後はガヴィーナ社とノール社(Knoll)で、現在はまたトーネット社で製造・販売されている。
参考文献:Marcel Breuer Design and Architecture, Vitra
     Design Museum, 2003

1925年ごろからの喧騒‒キャンティレバーの椅子をめぐって
 1925年、パリで開催された「現代装飾・産業美術国際博覧会」(略称アール・デコ博)にはじまり、バウハウス周辺で起こったモダンデザインの、さらに鋼管の椅子をめぐる喧騒に想いを馳せると、いまさらながら年甲斐もなく興奮し、「自分ならその場にどう居合わせただろうか」というバカな想いまで抱くのもデザイン屋の「さが」なのだろう。
 近代建築史家であるギーディオンが「キャンティレバー椅子のアイデアは多くあってどれがオリジナルかわからない」(*5)としたように、オリジナルとされるマルト・スタムのガス管をL型のジョイントで繋いだアイデアも「従前からの流れの中」と考えたほうがよいだろう。
 19世紀にできた農耕用のトラクターのシートはその典型である。あのミースもアメリカに渡って後の1940年頃、多分イリノイ州の農場で見て興味を抱き、椅子にしようとしたのか、スケッチを残している。その発想を後年イタリアのカステリオーニが「メッツアードロ」(*6)という椅子にしたようにトラクターのシートはキャンティレバーの構造を示した良きサンプルでもあった。さらに、1860年ごろのピーター・クーパーのロッキングチェアや1889年にアメリカのパテントにある船上での食堂椅子、1922年のハリー・E.ノランの「ローンチェア」などその源流は数多く散見できる。
 だが、1926年から29年ぐらいまで、スタム、ミース、ブロイヤーが鋼管によるキャンティレバータイプの椅子のアイデアから実現に向けて熱く燃えたのは、バウハウスでのモダニズムの概念を共有したからであろう。ギーディオンによる指摘かは定かでないが、グロピウス(*7)が1920年にバウハウスの自室のためにデザインした角型の肘掛椅子のフレームがキャンティレバーの椅子を暗示していたとするのである。また、1920年以後に限っても、キャンティレバーという構造の椅子は「当然あるべき姿」としてロシア・アバンギャルドの旗手タトリン(*8)やフランスのプルーヴェ(*9)らも試み、まさに時代精神の表現であった。
 キャンティレバーの椅子をめぐって、ここでもう一人の隠れたデザイナーについて触れておきたい。その人の名はハインツ・ラッシュ。(*10)彼は1924年ごろからキャンティレバーの椅子を構想。1925年には鋼管によるキャンティレバータイプのスケッチを残している。
 が、1926年11月22日、ヴァイセンホーフ・ジードルンクのためのミースとスタムらのミーティングで、スタムがガス管によるスケッチをミースに見せた場に居合わせていたらしいが、彼は横目で見ながら思わず唸ったことだろう。当時ブロイヤーの「ワシリーチェア」に座る彼の姿を見ると、同年齢のブロイヤーとは親しい関係にあったのだろうか。スタムがミースにスケッチを見せた場で声を出せなかったのは、彼はミースのアシスタントの立場だったし、スタムも年上であったからだろう。複雑な気分であったことだけは想像できる。
 そのころ彼が模索していたのは鋼管による肘付のキャンティレバータイプであったが、それ以後彼は鋼管にはコミットせず、一体型を模索していくのは内心忸怩たるものがあったのではなかろうか。弟のロブと共同でデザインしたとして残る「ジッツガイストゥシュトゥール、Sitzgeistuhl」(座る精神の椅子)という名の椅子は、その後リートフェルトのジグザグチェアからパントンチェアにつながる系譜のオリジナルというべきもの。そのあたりの事情は、1985年になって彼が言った「キャンティレバー構造を発明したのはミースでもスタムでもなく、建築の世界ではずっと使われていた」という言葉にも表れている。
 いずれにせよ、ラッシュの構想はブロイヤーのチェスカチェアのように計画生産されず、さらに言えば「美しい造形」として完成形を生まなかったために、アイデアが成果に結びつかなかった典型として、椅子の近代デザイン史における万とある話の一つである。
(今回は、ラッシュやそのほかの写真は残念ながら載せることができません)
*1:「チェスカ」という名前の由来は1962年にガヴィーナ社で生産されるとき、ディーノ・ガヴィーナとの会話の中から生まれた。「娘の名前は?」と尋ねるガヴィーナに、「Francesca」といったことから「Cesca」に。また同時に、テーブルが「Laccio」となったのはブロイヤーのミドルネームの「Lajko」から命名された。
*2: マルト・スタム(Mart Stam 1899〜1986)はオランダの建築家。バウハウスで教鞭をとっていたころガス管をL型のジョイントでつなぎ合わせた原案から1927年には鋼管によるキャンティレバーの椅子をデザイン。これがキャンティレバーの椅子のオリジナルとされブロイヤーとの間で訴訟にも勝訴し、ここでとりあげるべき椅子ではあるが「普及」という点でブロイヤーのチェスカチェアとした。先々月号参照。
*3:『家具タイムズ』649号参照。
*4:正式な名称は「Concours international du meilleur siege en aluminium」で1933年4月にパリで開催され14カ国74名の応募があった。日本からは西川友武が受賞。このことの詳細は西川友武『軽金属家具』工業図書株式会社、昭和10年、参照。
*5: ジークフリート・ギーディオン(Sigfried Giedion ,1888〜1968)は近代建築運動の理論的指導者として活躍したスイスの建築史家。著書の「空間・時間・建築」は近代建築の空間性を説いた名著。
Axel Bruchhauser, Der Kragstuhl,
Stuhimuseum Bad Beverungen, Berlin 1986, の129頁にグロピウスの肘掛椅子のフレームからミースのMRチェアまでの図が示されている。また、後述のハインツ・ラッシュに関する言説は9頁。
*6:「家具タイムズ」666号参照。
*7:ワルター・グロピウス(Walter Gropius1883 〜1969)はベルリンで生まれ、バウハウスを創設し初代校長。後にハーバード大学の教授も勤め近代デザインを牽引した建築家。肘掛椅子はバウハウスの校長室のために自らデザインしたもの。
*8:ウラジミール・タトリン(Vladimir Tatlin 1885〜1953)はロシア構成主義の代表的作家。画家、彫刻家、建築家、デザイナーでもあった。
*9:ジャン・プルーヴェ(Jean Prouve 1901〜1984)はル・コルビュジェとも親交のあったフランスの建築家。工業化(プレハブ)建築に多くの仕事を残した。
*10 :ハインツ・ラッシュ(Heinz Rasch 1902〜1996)はベルリンに生まれ、建築を学んだ後、弟のボドと家具関係の工場を設立し、ヴァイセンホーフ・ジードルンクではミースのアシスタントを務める。1928年には「Der Stuhl」という椅子の本を出版。「ジッツガイストゥシュトゥール、Sitzgeistuhl」(座る精神の椅子)という名前の椅子はラッシュ兄弟が1927年にデザイン。現在ヴィトラ・デザインミュージアムからミニチュアとして発売されている。