No.88 フランク・ゲーリーのダンボールを素材とした一連の椅子 1972(1969〜1973、1987)と 薄い曲木による「ゲーリー・コレクション」1992

 フランク・ゲーリーは1929年にカナダのトロントで生まれ、1947年に家族と共にアメリカ・ロスアンジェルスに移住。南カリフォルニア大学やハーバード大学で建築を学び、1962年にサンタモニカで設計事務所を設け独立。当初は家具のデザインも手がけ、1972年にはダンボールを素材とした椅子を発表。建築家としては1978年サンタモニカの自邸で注目を浴び、その後は「デコンストラクティビズム、Deconstructivism」(脱構築主義)1の建築家の一人として今日も世界中で活躍するスーパースターである。
 ゲーリーの建築はモダニズム建築の常識から離れた特異なもので、主なものは椅子の美術館として有名なヴィトラ・デザインミュージアム(1989)、ビルバオ・グッゲンハイム美術館(1997)、ウォルト・ディズニー・コンサートホール(2003)などがあり、他にも話題をさらった作品は数知れない。
 受賞暦もプリッカー賞や高松宮殿下記念世界文化賞など数多く、展覧会も世界各地で開催され、日本でも1992年に開催された。
 ダンボールによる最初の椅子のシリーズは「イージー・エッジズ、Easy Edges」と名づけられ、使い捨ての安価な材料・ダンボールに着目し、それを積層(スティールなどで補強)したユニークな造形のシリーズ。ゲーリーは発想当時から廉価を目指し、当初は7ドルであったというが、これに関わる人たちの思惑で35ドルになり、業界のやり方に怒り、一時家具のデザインをやめている②。が、87年にはダンボールを粘土のように使った椅子「Experimental Edges」を発表。現在、これらの中から四つのモデルがヴィトラ社で復刻生産されている。
 薄板の曲げ木による「ゲーリー・コレクション」は「軽量化への追及」、「フレキシビリティと剛性の両立」という二つの命題に挑戦して、5種類の椅子とオットマンにテーブルを加えたシリーズ③。これは7層のかえでの薄板(幅50㎜×2㎜)を重ねて弾力を生かし、ビスを使わず、接着剤のみで竹かごを編むように組み上げた家具。このアイデアは発表時より10年も前にできていたが技術的に不可能とされていた。しかし、ゲーリーは ノール社の協力を得て、実現に2年の歳月と多額の費用をかけ、木を曲げるジグなども開発し、ようやく1992年に発表。木の使い方で世間を驚かせた家具。
デザイン:フランク・O・ゲーリー(Frank O. Gehry 1929〜)
製造: イージー・エッジズ:イージー・エッジズ社、現在はヴィトラ社
   ゲーリー・コレクション:ノール社(Knoll)

驚嘆され続けたゲーリーとその椅子たち
 この20年余り、フランク・ゲーリーには驚かされどおしである。その彼も昨年80歳を超えたという。
 それでいて、最近ニューヨークに完成させたIAC本社ビルはゲーリーの異才ぶりが発揮された建築。相変わらずラディカルで若い。さらに、ドキュメンタリー映画『スケッチ・オブ・フランク・ゲーリー』④を観ると、彼のパワーの源と彼を好む多くの施主との関係が少しばかりわかるような気もするが、それにしても彼の仕事には驚かされる。
 ゲーリーの仕事で最初に驚かされたのは、彼がデザインしたダンボールの椅子とサンタモニカの自邸で、1986年のこと。そして翌年の魚のオブジェ「フィシュ・ダンス」〈神戸〉⑤に。さらにその翌年の88年、折りよく居合わせたニューヨークのMoMAでは「デ・コン」①という突風が吹いていて、ゲーリーは展示された七人の一人であった。
 驚きの端緒はニューヨーク・ホイットニー美術館での彼の個展。今から20年以上も前だから彼の建築家人生の前半部分で、その後の20年以上にわたる活躍はさらなる驚きの連続。ホイットニーでは柿落としの「アメリカ現代美術展」(1966)の喧騒がうそのように静寂な空気が漂う中、数多くの建築模型や図面が並んでいたが、その静けさとは裏腹になにか得体の知れない興奮を覚えた私を彼のサンタモニカの自邸へと向かわせた。しかし、それが「戦後のバラック」としか見えなかったのは私の貧しい知力のせいであったのだろう。
 同様に、ダンボールの椅子も「存在」だけはそれ以前から知っていたが、実際に出会ってみても「使い物になるのか?」、「商品には?」と疑問視したときの印象は今もそれほど変わってはいない。モダンデザインの洗礼を受けた私にとって、やはり異次元の椅子である。それにしても、今、商品として日本でも買うことができるのは彼の知名度と復刻したヴィトラ社、とりわけ社長のフェールバム⑥との関係にほかならない。昔、ネルソンの紹介で私もフェールバムから「いい案ができたら送ってくれ」という手紙を一度だけもらったが、彼のゲーリーへの思い入れはその程度のものではなく、執拗に椅子のデザインを依頼。ゲーリーがやっとのことで提示したのが「ゲーリー・コレクション」の原案であったが、製作不可能でお蔵入りになったのはその発表より10年ほど前のことであったという。
 ゲーリーの建築は見る者を驚かせ、批評家を饒舌にし、時には使う者に困惑を招き、都市環境として賛否を激しく二分する。ダンボールや木の椅子もまた異色であることに違いはない。が、椅子は「廉価」、「軽量」、「素材の可能性」といったモダニズムの視点で、紙や木というありふれた素材を「商品としての椅子」へつくりあげる発想と実現への執念は半端ではない。ポストモダニズム華やかなりし頃、おもちゃ箱に入れたらよいような色や形をもてあそんだ椅子とは根本的に異なる。多くの時間と費用をかけ企業の「商品」にまでにしたことは特筆に価し、異色ではあるが間違いなく20世紀の椅子として記録にとどめられるであろう。
 椅子は生まれた時代を映す鏡である。20世紀の椅子をふりかえれば、その時々の社会背景に思想や科学技術(素材や製法)が織りなされて新たな「かたち」が生まれてきた。
 ダンボールという素材も昨今叫ばれる「エコ」などではなく、60年代後半には「ディスポーザブル(使い捨て)」というキーワードで椅子も数多く登場したが、これらは単にそのまま平面的に使ったものであった。ゲーリーのは違う。彼自身が言うように、ダンボールの「安価」に注目し、粘土のように造形の素材として使ったのだ。
 1986年以来の「驚き」のさらなる続編として、最後にもう一脚。80歳を超えてもパワフルなゲーリーに新たな素材による異次元の椅子を期待してみたいのだが・・・・。
① :脱構築主義の建築(80年代末の日本ではデコンストラクティビズム、Deconstructivismを略して「デ・コン」などと言う)は、伝統的建築が持つ秩序や論理性に対する批判として、ひずみ、ゆがみなどこれまで体験したことのない空間をつくることで新しい建築の可能性を探るもの。フィリップ・ジョンソンとマーク・ウイグリーが監修してニューヨーク近代美術館で開催された「脱構造主義建築者展」(1988年6月23日〜8月30日)で反響を呼んだ。ゲーリーもその展覧会に参加した七人の一人。
②:雑誌『SD』1992年の9月号、12〜15頁、インタビュー記事の中でゲーリー自身が語っている。
③: 椅子は5種類で、アイスホッケー好きのゲーリーらしい名前が付けられている。それらは「ハットトリック」(肘付と肘なしの2種類)、「ハイスティッキング」というハイバッチェア、「クロス・チェック」、「パワー・プレー」である。重量は肘付の「ハットトリック」が3.2キログラム、「クロス・チェック」は5.5キログラムと軽量である。
④: アメリカで俳優、監督、プロデューサーとして活躍したシドニー・ブラック(ゲーリーの友人で2008年に73歳で没)によるゲーリーの製作過程や友人などが彼について語る様子を描いたドキュメンタリー映画(2005年)。
⑤: 1987年に神戸海港20年を記念して建てられたゲーリー設計の大きな鯉のオブジェ。ゲーリーはアイスホッケーと魚(鯉)が好きで、日本の「鯉のぼり」や広重の版画に描かれた鯉も大のお気に入り。また、京都・竜安寺の石庭に感動し涙を流したという。
⑥: ゲーリーも今では「いい友達でお施主だ」と言うヴィトラ社の社長・ロルフ・フェールバム(Rolf Fehlbaum)は、ハーマンミラーの家具をヨーロッパに導入するなどデザイン主導の経営者で知られる。ゲーリーへの思い入れは相当なものだったようで、「ゲーリー・コレクション」の原案が製作不能になり、代わって美術館の設計を依頼したのではないか。雑誌『SD』1992年の9月号、15頁参照。