No.98 ポストモダンの椅子たちと それらを代表してミケーレ・デ・ルッキの「ファースト」1983

お詫び  昨年の7月号(700号)で紹介した椅子「ラミネックス」に関して、その後の情報で、私が当初から危惧していたことが真実となりました。「ラミネックス」をデザインしたのは7月号で紹介したニールセンとは同姓同名の別人でした。至急、再調査して報告させていただきます。

 ポストモダニズムを一言で言えば、モダニズム(近代主義)の行き詰まりを超克しようとする思潮で、60年代半ばから哲学や文学などの領域で広く用いられた用語である。
 造形分野では60年代末からのラディカル・デザインにその傾向は見られたが、1977年にチャールズ・ジェンクスが著した『ポスト・モダニズムの建築言語』1を契機として建築の分野で大きな潮流となった。
 80年代に入ると、その潮流は建築からインテリア、家具や生活用品に至るデザインの領域に及んだが、最も顕著にその現象が現れたのが家具で、イタリアを中心に世界へと波及した。その代表的なグループには「アルキミア、Alchimia」2からはじまり1981年にエットーレ・ソットサスが主宰した「メンフィス、Memphis」3がある。「メンフィス」の特質は企業化したことと参加したクリエーターが国際的に広がりを見せたことであった。
 このころ世間を賑わせたクリエーターには、ソットサスの他に、アンドレア・ブランジ、ミケーレ・デ・ルッキ、アレッセンドロ・メンディーニ、ピーター・シャイアやアメリカではマイケル・グレイヴス、ロバート・ベンチューリなどがいた。
 尚、日本から磯崎新、倉俣史朗、梅田政徳の3名が「メンフィス」に参加した。
 彼らの活動が日本で大きく紹介されたのは、1985年に京都と東京の近代美術館が企画・主催した展覧会「現代デザインの展望—ポストモダンの地平から」である。また、1988年には日本の前衛的クリエーターを自称するデザイナーが大挙して作品を発表したのが「東京デザイナーズウイーク88」で、国際的には峠を過ぎていたが、日本ではピークに達した。
 ミケーレ・デ・ルッキは、1951年イタリアのフェルラーラに生まれ、フィレンツェ大学で建築を学ぶ。1973年に「CAVART」というグループを創設して前衛的な活動を始める。「スタジオ・アルキミア」に参加の後、1981年、ソットサスと「メンフィス」の創設に参加。1984年に独立し、多くの企業のデザインを手がけ国際的に活動を展開した。80年代からのポストモダン華やかなりし頃の若手のスターであった。パイプを使った椅子「ファースト」はポストモダンを象徴する椅子となっている。
デザイン:ミケーレ・デ・ルッキ (Michele De Lucchi 1951〜)
製造: メンフィス

80年代に吹いた「ポストモダン」というつむじ風
 窓の外には鉄とガラスで覆われた超高層マンション。机上にはチャールズ・ジェンクスが記した『ポスト・モダニズムの建築言語』がある。
 マンションはプラモデルを組み立てるような工法で昨年になって突如現れたのだが、60年前のミースのレイク・ショア・ドライブ4と比べ、むしろ薄っぺらく、品格もない、と思うのは私の偏見なのだろう。この60年間のちょうど中間点である30年前に吹いたポストモダンというつむじ風を思い出すと、なにか錯覚さえ覚える。
 デザインの世界でポストモダン現象が世界的に蔓延したのは1980年代。昨冬その猛威を恐れられた新型インフルエンザ同様世界中を駆け巡ったが、 20世紀初頭ヨーロッパでの「アール・ヌーヴォー」も同じようであったのだろうか。
 機能合理性を追求するあまり味気なくなったモダニズムの造形に対し、人間的な情感やバナキュラーに根ざした造形が求められたことは時計の振り子のようにごく自然な現象であった。当時最も顕著にその傾向を示したのが家具で、デザイナーのみならず建築家までも理念表現の対象としたのは、建築に比べモデルを作る程度の費用で自らの考え方を表現できることにあった。
 エットーレ・ソットサスの「メンフィス」をはじめとして、「これこそがデザイン」といわんばかりに世界中のジャーナリズムが騒ぎたてた。
 一方、この種の動向に機敏に反応するのが日本のデザイン界の常で、その波はすぐさま押し寄せ、ジャーナリズムの扇動も手伝って多くの目立ちたいデザイナーが一時的に手を染めた。そのピークは1988年の「東京デザイナーズウイーク88」5で、アヴァンギャルドの仕事を「ヨイショ」することで自らのアイデンティティと時代を予見できる「知」を示そうとしたデザイン・ジャーナリズムの騒ぎようはいま考えると滑稽でもあった。
 が、これは「はやり」だから仕方がないし、もともと日本にまともなデザイン・ジャーナリズムなど存在しない、とわかっていてあえていうのである。当時の関連記事の中に「これは流行現象ではない」という言葉まで散見できたが、とんでもない。流行そのもので、儚くも、いまや跡形もない。
 かつて岡本太郎が「座ることを拒否する椅子」6というオブジェを発表したことがあったが、これはアートであった。モノ(椅子)のデザインで、使い物にもならず早晩ガラクタになるものを、どうしてこれほどもてはやすのか、当時まったくわからなかった。彼らは「単に、使う(座る)というよりデザインの意味を問うたのだ」と言うだろうが、「1968年運動」を背景に一貫して主義主張を展開したイタリアのクリエーターとは異なり、日本では「にわかポストモダニスト」がなんと多く出現したことか。
 「ポストモダン」というムーブメントの果たした役割もなかったわけではない。退屈したデザインの流れに警笛を鳴らし、「節目」をつけた意味は大きかった。
 が、儚いものであった。多くのヒット曲を作詞し、流行を知り尽くした作家の阿久悠が亡くなる直前の新聞紙上に「流行は短命で貢献する。消える流行が幸福で、傾向化すると人間を縛る」と書いていたが、ポストモダン現象にもずばり当てはまる。
 人間が日々使用する「モノ」のデザインは、時には流行という波に揉まれもするが、科学技術の歩みとともに大河の流れのごとくゆっくりと進化していくものである。
 それにつけても、80年代後半のバブル経済と呼応して日本の家具デザインに吹いた「ポストモダン」というつむじ風。今となっては懐かしいかぎりである。
① :チャールス・ジェンクス著(竹山実訳)『ポストモダニズムの建築言語』は、『au』1978年10月号臨時増刊号。
②:1976年にアレッサンドロ・グエリエーロによって60年代末からの「ポスト・ラディカリズム」の実験の場として発展。79年以後はアレッサンドロ・メンディーニが中心となり、「バウハウスコレクション」などモダンデザインの批判を展開した。
 尚、アレッサンドロ・メンディーニ(Aessandro Mendini、1931〜)はミラノ工科大学建築学部を卒業、ニッツオーリの事務所で働いた後、1972年から建築誌「カサベラ」「モード」「ドムス」の編集長を勤める一方、実際の造形活動も行い、イタリアのポストモダンを牽引した中心的存在。〈余談ながら、筆者は1967年にニッツオーリの事務所を訪れたのだが・・・・〉
③:雑誌「JAPAN INTERIOR DESIGN」1982年2月号に特集として「メンフィス」の全貌が紹介されているので参照されたい。
 尚、エットーレ・ソットサス〈Ettore Sottsass、1917〜2007〉は1958年からオリベッティ社の製品デザインをてがけ、赤いタイプライター「ヴァレンタイン」は一世を風靡した。その後の活躍は多方面にわたり、イタリアのデザインを世界的なものにしたスターデザイナーである。尚、あまり知られていないが、若いころアメリカのモダニズムの牙城・ジョージ・ネルソン事務所で働いたことがあるのは興味深い。
④:1951年にミース・ファン・デル・ローエが設計したシカゴのミシガン湖畔に建つ高層アパート。今から60年前のことでモダンデザインの典型であるが、ジェンクスによって事務所のような建物と批判された。偶然なのか、「メンフィス」が誕生した1981年はちょうど中間の30年前のことになる。
⑤:1988年の11月に東京の各所で開催され、雑誌「icon」(1989年の1月号、Vol.15)で「家具デザインの現在」として特集された。
⑥:大阪万博の「太陽の塔」で有名な美術作家・岡本太郎が1963年に製作・発表して話題をさらったスツールの形態をした作品。