No.09 ハンス・ウェグナーの「ザ・チェアー」1949

1940〜50年代、デンマークを中心とした北欧が世界の家具デザインを主導した時代。今月は、その時期数多くの名作を残したハンス・ウェグナーの代表作である「ザ・チェアー」と呼ばれている椅子を取り上げます。

500脚にも及ぶ椅子をデザインしたハンス・ウェグナーはデンマークという国の持つ特性を限りなく発揮し続けたデザイナーである。
背の笠木から肘に連続する椅子の原形は、中国・明代の椅子に見られ、それをリ・デザインしたのが1943年に発表されたチャイニーズチェアーであり、これを契機に多くの名作を生むことになる。「ザ・チェアー」と名付けられたこの椅子もこの系譜にあたるもので、プロポーションの美しさ、貫のない合理的な構造と何よりも品格をそなえたウェグナーの代表作
である。当初、背から肘にかけた笠木には籐が巻かれていたが、その後、三つの部分がフィンガージョイントという工法で組み合わされ現在に至っている。1961年、ケネディとニクソンの大統領選挙のTV討論で使われ一躍アメリカで知られる椅子となった。
デザイン:ハンス・ウェグナー(Hans J. Wegner 1914〜)
製造:ヨハネス・ハンセン(Johannes Hansen /Denmark)

↓(左)ハンス・ウェグナーが影響を受けたとされる中国・明代の椅子「圏椅」

明代の椅子に影響を受け1943年にリ・デザインしたチャイニーズチェアー↑(右)

大学生活を支えてくれた恋人
香港から船で30分あまり行っただろうか、今では場所の名前も忘れてしまったが、そこの家具工場の庭にずらりと並んだ仕上げ前の「ザ・チェアー」に出くわしたのは随分昔のことになる。
まさかこんなところで。とびっくりし、近づいてみると、細部を見るまでもなくこれらは正真正銘のコピーであった。
椅子は、人間が座るための単純な道具である。そのデザインは既存のものに大なり小なり影響を受けて発展してきた。だが、影響と一口に言ってもデザインの盗用であるコピーから、影響を受けながらもデザイナーのオリジナルといえるまで昇華させたものまで多くのレベルがあり、その境界は紙一重。明らかにするのは難しい。最後はデザイナーの良識によるのだろう。
ウエグナーの「ザ・チェアー」も中国・明代の椅子(圏椅)に大きな影響を受け、1943年に発表されたチャイニーズチェアーを発展、リ・デザインしたものであることはよく知られている。
実は、日本政府がデザインの重要性に気づいたのもデザインの盗用問題にあった。1957年、時の外務大臣藤山愛一郎が訪英した際、「MADE IN JAPAN」と記されたモノがデザインの盗用であるとして厳しく非難されたのが契機となり、Gマーク制度などのデザイン振興が始まった。というのも、当時はモノの輸出こそが日本経済の生命線であったからである。しかし、これら「MADE IN JAPAN」と記されたモノの大部分は、海外のバイヤーの言うがままに作った今でいうOEM製品であったことはあまり知られていない。が、結果としてデザイン盗用であり、輸出に悪影響を及ぼすことは避けねばならなかったことであったのです。
現在、中国が世界の工場といわれるように、50年代の日本が、その後の香港が安い労働力を生かして世界の工場となっていた。
香港で見た「ザ・チェアー」もイメージを限りなくオリジナルに近づけながら、その上廉価に、というバイヤーの指示にしたがって作っていたのだろう。このようなモノの作り方は戦後のわが国には繊維製品をはじめ雑貨などに多く、デザインの盗用問題をよくひきおこしていた。
「ザ・チェアー」との関わりは、1976年、大学という研究の場に移った時から20年以上毎日お世話になっていたから相当長い。どうしてそんな高価な椅子を、と不思議に思われるかもしれないが、住環境学科という新学科が創設された時。学生に本物を触れる機会を、という目的から研究室に一点資料にもなる椅子を買うことが可能になったので、迷わず選んだのが「ザ・チェアー」であった。
以来、毎日、キャスターもなく、回転もしないので執務用としてはそれほど適してはいないが、椅子の中の椅子という意味で名付けられた「ザ・チェアー」は、何といってもプロポーションの美しさは卓抜で、微妙な曲線のチーク材の肘を撫ぜながら仕事をする私を支えてくれた。大学生活にとってかけがえのない恋人同然のモノの一つとなっていた。
手垢で肘の部分が少し汚れてはいるが、今は美術工芸資料館で、次代を担う若い人たちの資料になるべく余生を送っていることだろう。
注1:岸内閣の外務大臣で、レイモンド・ローウィ著「口紅から機関車まで」の翻訳者。歴代の大臣でデザインの本を記したことは、今考えると驚きでもある。