No.10 ハードイチェアー (1938)

先月に続き、過去のものに影響を受けてデザインされた通称「ハードイチェアー」を取り上げ、デザインのコピー問題にもふれてみたい。

一般にハードイチェアーと呼ばれている椅子は、19世紀末からヨーロッパでよく知られていた木製の折り畳み椅子(1877年の3月、土木技師のジョセフ・ビバリー・フェンディーが英国のパテントを取得)に影響を受け、コルビュジェの事務所にもいたことのあるアルゼンチンの建築家ハードイと仲間の二人(ボネ、クルシャン)のグループ(Grupo Austral)によって、1938年デザインされたものである。ハードイ自身もこの椅子の存在と影響を認めている。
オリジナルの制作はArtek−Pascoe社が行っていたが、1947年からアメリカのノール社がハードイとのローヤリティ契約により販売し、ビジネスとして大きな成果を収める。
だが、スティールのロッドを四個のヘアピンで固定したフレームに皮かキャンバスを引っかけるという制作の容易さから大量のコピー製品が出回り、訴訟もあってノール社は手を引くことになる。デザインのオリジナリティとコピー、その権利保護などの問題を含め話題の多かった椅子の一つである。
その一方、スティールのフレームとキャンバスなどのフレキシブルなシートの組み合わせという椅子の構成は、70年代にカジュアルな椅子としてわが国でも流行するが、この椅子はそれらのさきがけとなった。
デザイン:ハードイ(Jorge Ferrari Hardoy)(1914〜77)
ボネ(Antonio Bonet)
クルシャン(Juan Kurchan)


ノール社は宣伝のためのグラフィックスにも優秀なタレントを起用し成果を収めたが、これは1950年のハードイチェアーと遊ぶ子供をテーマとした2ぺージにわたる有名なもの。
(デザイン:Herbert Matter )

一脚のコピーの意味
1960年にといえば、所得倍増論をひっさげて池田内閣が登場し、日本経済が高度成長へと疾走し始めようとしていたころ。
デザインの領域においてもエポックとなった年である。世界デザイン会議(WoDeCo)が東京で開催され、ようやくファッション(服装デザイン)以外のデザインが社会的に認知され始めた。というのも、それまではデザインといえばファッションデザインである、と一般には理解されていたからである。
1961年、私は大学を出て高島屋の設計部(大阪)に入社した。高島屋といえば百貨店ではないか、と不思議に思われるかも知れないが、その頃の高島屋の設計部は、大阪に30人ぐらい、東京と京都を合わせて総勢70名ぐらいであっただろうか。デザイナーの数も多かったが、仕事の内容やデザイナーのレベルにおいても日本のインテリア業界の一翼を担っていた。
学生時代にはいろいろなことに挑戦もし、ある程度の評価を得て入社したつもりであったが、そんな自信めいたものが霧散するのに時間は要らなかった。新入社員がどうあがいてみても太刀打ちできない職人的デザイナーがゴロゴロ製図版を並べていたからである。
配属されたグループのリーダーに森岡正という凄い先輩がいた。特に椅子のデザインは卓抜で、国内のみならず海外のコンペにもよく入賞を果たしていた。図面は太い鉛筆で描くので繊細で美しいというものではなかったが、あまり物差しをあてずとも見事な十分の一の椅子の図面になってしまうのには驚かされた。私が苦労して描いた図面の上を太い鉛筆でチェックされ、また一から描き直しか、と腹立たしいことも度々であったが、椅子のデザインについて多くを学ばせてもらった。
ある日、「オレの家に来るか」という。行ってみると、庭先にあった細い金属フレームにキャンバスを引っかけた椅子を指差し、「これがハードイチェアーという椅子やで」というのである。
当時、海外の家具など輸入されるのは展覧会用ぐらいのものあった時代。いくらなんでも買うわけがない、と思ったが即座にそれがコピーであると判別がつかなかった。
だが、このハードイチェアーは雑誌の写真を見て図面を描き、金物屋に作らせた森岡自身の勉強のために作ったハードイチェアー。脚部の構成や強度を確認し、自らのデザインに生かそうとして作ったものでまさにオーダーメイドのコピーであった。この椅子は、フレームの強度もさることながら、四つの支点の位置関係とキャンバスの張り具合で座りごこちはおろか、椅子にもならないシロモノ。試作を重ねる必要があったのだろう。
このように簡単にコピーが作れることは、ハードイチェアーの誕生時からの宿命がここにも生きていた。本物ではなかったが、椅子のデザインにかける氏の真摯な姿勢にふれたことは、私を椅子への興味に引きずり込ませた。
それ以後、アメリカで何度か出会うたびにこのときの記憶がよみがえり、デザインに対する取り組む姿勢とともに、ビジネスのためには夥しいコピーが出現する恐ろしさも禁じえなかった。