No.02 イームズのNo.670とNo.671(1957)

(ハーマンミラー社のカタログでは番号で呼ばれる)イームズのNo.670とNo.671(1957)
通称ラウンジチェアーと呼ばれるこの椅子は、映画監督ビリーワイルダーへの贈り物としてデザインされたとされる。3枚の2次元成型合板をジョイント金物で結合して座、背、ヘッドレストを構成し、皮張りのクッションは合板に取りつけられた金物にフックで引っ掛けボタンで留めるといった生産性を重視したアッセンブリー方法を採用し、これまでの椅子とは異なる特徴を持つ。が、なによりも形状に風格があり、オットマンとの一対のデザインによるイームズの代表作。
ラウンジチェアーといえばこの椅子を思い浮かべるように、圧倒的な存在感のある椅子である。
イームズはこの椅子について、座り心地(実用性)と部屋の中でどのように映えるか(空間性)を中心にデザインした、という。
デザイン:チャールス・イームズ(Charles Eames)(1907〜1978)
製 造:ハーマンミラー社(Herman Miller Inc.)

1メートル50センチ角ぐらいはあっただろうか、待ちに待った木箱が届けられた。早速、胸躍らせながら開けてみて、愕然とする。ラウンジチェアーの肘の合板部分が無残にも裂けていた。
アメリカ留学から帰国の際、滞在中の別送荷物として、イームズのラウンジチェアー他数点の椅子を送ったのだが、梱包状態が悪く、長い船旅の途中で傷んでしまったのだ。
アメリカ留学では多くのことを学び、得がたい経験もしたが、イームズのラウンジチェアーはモノとして別格で、私にとってのお宝。というのも、ネルソン事務所で得た給料を貧乏生活に耐えながら貯め、清水の舞台から飛び降りる心境で買った若き日の証であった。
思案に暮れて、当時の高島屋工作所に相談したところ、クッション部分など研究資料として検討させてくれるなら修理代は無料でやってやろう、と言ってもらい一も二もなく承諾した。当時はあまり見ることさえできない貴重なものであったからではあるが。
クッション部分を開けてみて、羽毛を入れた小さな袋を寄せ集め、クッション材として使用しているのには驚いた。修理の結果は、どこから見てもわからぬほどの見事な技で元の形に甦った。少し古びてきてはいるが、今日まで私の家の庭に面した縁側で鎮座している。夏の昼下がり、足をオットマンに投げ出し、蝉時雨を聞きながらの午睡には重宝している。
この椅子については、ジーランドの工場で製造過程もつぶさに見たし、思い出も多いが、ここでは当時(1966年頃)のアメリカと日本の経済的な差がどれほどのものであったのか、この椅子を通してみてみようと思う。
私の帰国当時の月給は2万円程度。ネルソン事務所では、安いといえども1ドル360円換算で20万円(大学卒の初任給より少し多いぐらい)程度はもらっていた。給料の計算は週給制で、2週間分を小切手でもらい銀行へ郵便で送るのだが、確実に届くのかと心配もした。いずれにしても約10倍である。当時、ラウンジチェアーは輸入品で60万円ぐらいであったと記憶している。親にこの椅子は自動車と同じ値段だ、といったら驚愕され、バカな買物をして、といわれたものだ。60万円といえば大衆車が買えたと思う。日本での給料の30倍ということになる。アメリカではどうかといえば、66年頃のカタログ価格は392ドル(14万円強)で、オットマンは143ドル。社員並の価格にしてもらったということもあるが、私の半月分の給料で買えたのだ。ということは、給与の差は10倍であっても、輸入品を介した差は買い方によれば60倍近くになっていたという、今では考えられない話である。
アメリカにおいてもこの椅子はある種ステイタスシンボルのような存在で、私が買って持ち帰るといった時には事務所の同僚が驚きの声をあげた。気でも狂ったのかと。欧米人の家具に対する価値観は日本人と異なり高い、なんていうのは嘘で、一般の人の間では住宅用としてモダンな椅子を使うこと、ましてや多額の金を出すことなどとんでもないこと。その証拠に、滞米中百貨店の家具売り場でハーマンミラー社の家具をついぞ見つけることができなかった。あのシカゴのマーシャルフィールド(巨大なワンフロアーを家具売り場が占めていた百貨店)でさえも。当り前のことではあるが。
今、イームズマニアの間では、当時のモデルなら100万程度するのだという。骨董的価値が出てきたことに過ぎし月日の長さを感じずにはおれない。