No.07 ミースのバルセロナチェアー(1929)

通称バルセロナチェアーと呼ばれているこの椅子は、1929年スペインのバルセロナで開かれた万国博のドイツ館(バルセロナパビリオン)を設計したミースが、パビリオンを訪れるスペイン国王のためにデザインした椅子。パビリオンはミースの建築に対する思想を集約した20世紀を代表する建築。(パビリオンは博覧会終了後に取り壊されたが、1986年に復元された)この椅子は、古代エジプトやギリシャの支配者の間で、権力の象徴であった鋏型の折りたたみ椅子をヒントにしたとされている。
当初、フレームはクロームメッキされたフラットバーで、左右のフレームと貫はネジ止めする構成になっていた。その後、クッションを支える革帯との関係などいろいろな変遷を経て、1948年ノール社によって、フレームを一体したステンレスとして復元され今日に至っている。椅子という道具に内在する多様な要素を具現化した20世紀を代表する椅子である。
デザイン:ミース・ファン・デル・ローエ(Mies van der Rohe 1886—1969)
現在の製造:ノール社(Knoll International)


クラウンホールにあるミースの胸像


著者がいた頃のクラウンホールでの
展覧会とバルセロナチェアー

バルセロナチェアーの空間
憧れのクラウンホールに初めて足を踏み入れたのは、1965年の9月の朝。それは、初秋の陽光に映えた鉄とガラスによる端麗な姿を浮かび上がらせていた。
そのホールの一階中央部、パーテションの裏側で、当時日本では見ることもできなかったバルセロナチェアーに初めて出会うことができた。
革のクッション部分が少し擦り切れてはいたが、なんの気負いもなく、無造作に置かれていた。ミースの胸像とともに。これがIIT(イリノイ工科大学)のクラウンホール、ミース教の本堂なのだと感得した瞬間であった。
大学院への入学のために、ポォートフォリオを持ってダブリン教授の面談を受けるために訪れたときのこと。面談は緊張の連続で何を話したかもさだかでないうちに終わってしまったのだが、初めてバルセロナチェアーに腰をおろし、これからここでデザインを学ぶのかと思うと、何ともいえない興奮で身震いを覚えた記憶が今でも鮮明に残る。
その後も、私が仮に住んだキャンパス内のアパートやドミトリーのロビーで、レイクショアドライブのアパートにも、シカゴはミースの本拠地だけあってあちこちでミースの空間とともにバルセロナチェアー出会うことができた。
あの頃は、ミース教の教徒になったかのような気分になり、ひまを見つけてはよくミースの建物を巡礼した。なかでも、クリスマス休暇を利用して雪のシカゴからグレイファウンドバスで一週間。灼熱のメキシコ郊外にあるバカルディのオフィスへ行ったとき。貧乏学生の身で、タクシーの運転手と値段交渉をしながら走ったことなど今は懐かしい。
ミースの空間には決まってバルセロナチェアーが置かれていた。
椅子は、人間が座るということでの機能性(身体性)の他に、象徴性、時代性、空間性など多様な意味を内在する道具である。バルセロナチェアーはこれらの要素を余すところなく捉えた20世紀を代表する椅子であろう。
ミースは椅子について次のように言う。「椅子は非常に難しいオブジェクトである。デザインしようとした人なら誰でもこのことは知っている。そこには無限の可能性と多くの問題がある。良い椅子を作るより高層ビルをデザインする方が多分やさしいのではなかろうか」と。
1920年代から40年頃までの間に、ミースが構想し描いたキャンチレバーの椅子から三次元のシェル構造の椅子まで数多くのスケッチを見ると、今さらながらミースの椅子に対する姿勢が読み取れその思いが伝わってくる。20世紀を代表する建築家であるだけに、この言葉はやけに説得力を持つ。
2年程前のある日。私の住むマンションのロビーに忽然と四脚のバルセロナチェアーが出現した。その不自然さに驚き管理人に聞いてみると、ある人が処分に困り、使えるものなら使ってほしいというので置いたという。
40年前の私にとって、幻の存在であった椅子が我が家のこんな近くにある。それもほとんどの住人は、この椅子の価値は勿論のこと、存在にすら無関心であるにもかかわらず。
椅子とは、モノの価値とは、とあらためて考えさせる。
バルセロナチェアーは、当然ながらミースの空間に最もふさわしい椅子である。