No.65 エリック・グンナール・アスプルンドの小椅子 1937

昨夏、北欧を旅した目的の一つがストックホルムでアスプルンドの「森の墓地」へ行くことであった。日本でも一昨年あたりからアスプルンドが再評価されだしたが、椅子などはあまり知られていない。今月は、復刻されたアスプルンドの小椅子を取り上げます。

エリック・グンナール・アスプルンドはスエーデンのストックホルムで生まれ、ストックホルムの王立工科大学で建築を学んだ後、王立芸術大学にも入学するがすぐに退学し、仲間とともにつくった「クララ・スクール」でさらに建築への関心を深める。1912年ごろから独立して設計活動をはじめ、1915年「ストックホルム南墓地」のコンペに友人のシーグルド・レペレンツと応募し一等を受賞。これを契機に以後25年をかけ、「森の礼拝堂」から「森の火葬場」までの森の墓地の仕事は続き、アスプルンドの生涯をかけた代表作となる。(*1)その他、北欧・近代建築への嚆矢となった1930年のストックホルム博覧会やストックホルム市立図書館(1928)、イェーテボリの裁判所増築(1937)、自らの休日の家として建てた「夏の家」(1937)などがある。アアルトやヤコブセンにも影響を与えた北欧・近代建築のパイオニアである。
この時代の建築家と同様に、アスプルンドはプロジジェクトのたびに椅子もデザインしていてその数も多い。中でもイェーテボリの裁判所(増築)で今も使われている椅子は、背がおおらかなトーネット流の一本の曲木によるデザインで、それでいて身体のあたる部分のディテールなどに配慮された、30年代後半の椅子としてアスプルンドらしい名品である。
しかし、現在一般的に知られているのはカッシーナ社で復刻されその名も「イェーテボリ1」と名づけられた椅子で、かつてアスプルンドの事務所にいたデザイナー、カール=アクセル・アッキング(*2)が監修したとされている。これは、スティールの芯にウレタンを巻き革でカバーした背部を後ろ脚の木部につないだ椅子である。しかし、30年代ではこのようなつくり方は素材や技術的にも難しく、今日の市場で受け入れられるように相当アレンジされたものと考えられる。否、復刻だといっても別のデザインだとすべきぐらいのものである。
このほか代表的な椅子のデザインでは、パリ装飾芸術展に出品したラウンジチェア(1925)や工芸協会事務所に使われた脚部がスティールのロッドの肘掛け椅子(1931)などがある。
アスプルンドの家具的な仕事(造作)として、森の火葬場・小礼拝場の待合室(1940)にある壁から流れ落ちるような造形のベンチは秀逸で注目すべきものである。
デザイン:エリック・グンナール・アスプルンド(Erik Gunnar Asuplund 1885〜1940)
製  造:現在はカッシーナ社(Cassina)
*1:1994年に20世紀の建築としては初めてユネスコの世界遺産に登録された。
*2:カール=アクセル・アッキング(Carl−Axel Acking,1910〜2001)はスエーデンの建築家・デザイナーで、アスプルンドの事務所にいたことがある。
*3:アスプルンドのスケッチに、復刻されたものと同じものがあったのかは、わからない。イタリアのElecta 社から1985年に出版された“Erik. Gunnar .Asuplund mobile e oggeti”のP.101にほとんど現在使われている形の図面があるが、復刻された椅子の背部と同様の革と木部のつなぎ部分に一本の線がある。しかし、背の部分のあたりをやわげるために木の上に革を巻いていたか、色を塗り分けたかではないかと想像する。ゆるやかな曲線の途中で別物を接ぐのは、よほどでないとひずみが出るのでアスプルンドほどの人がするとは思えない。また、30年代には薄いフェルトのようなものを入れたとしても周囲の木部とツラに収めるなど考えられない仕上げ。さらに、復刻されたものは革の色が白や赤まであり、あまりに今日的である。

今、なぜアスプルンドなのか、復刻されたアスプルンドの椅子は?
ストックホルム地下鉄の郊外駅、スコーグスシュルコゴーデンを降りると、葬儀に行くのであろうか、正装した数人の男女が歩みを速めていた。
その後をそっとつけ、少しばかり行くと彼らは急に右に曲がった。その途端、ぬけるような青空には白い雲。緑の芝生の中にあのアスプルンドの十字架が浮かびあがった。
いつか訪れてみたいと永く考えていて、昨夏やっと実現したのがアスプルンドの「森の墓地」。途中墓参の人にも会いはしたが、朽ちた松葉をふみしめ人影のない墓地を歩き続けること一時間あまり。私自身の逝く先にも思いをめぐらしながら日陰に座ると八月というのに乾いた心地よい風が頬をなぜた。(*1)
この数年、わが国でもアスプルンドを再評価する機運が高まりつつある。一昨年には東京と京都で展覧会があり、同時に「今、なぜアスプルンドなのか」というシンポジュウムも開催された。(*2)あえて乱暴を承知でそれを一言すれば「高い精神性に裏打ちされた設計姿勢」とでも言えばいいのだろうか。
だが、アスプルンドは「知る人ぞ知る」といった存在であることも確かで、椅子のデザインとなるとなおさらのこと。このところよく行く企業のエントランスホール横にアスプルンドの復刻された小椅子が数多く並んでいる。あるとき、そこの若いデザイナー達との雑談中「この椅子は誰のデザインか、知っているの?」と聞いてみたら、全員首を横に振った。アスプルンドはまだまだ遠い存在なのだ。そういう私もカッシーナ社から復刻されるまでこの椅子について全く知らなかったのだから似たようなものではあるが。
復刻されたアスプルンドの小椅子に初めて出会ったとき、大きな見誤りをしたことが契機となりこの椅子に関わり続けることになった。それは背の革の部分にある。ある角度から見ると木部との境目に歪があり明らかに別物を接いだものとわかるのだが、表面の革があまりにきれいな仕上げと少しの弾力性があるために思わず「スキンレスのウレタンによる成型品だ」と見誤ってしまった。
しかし、この椅子はイェーテボリの裁判所増築のときにデザインされたといわれるが、現在も使われているオリジナルの椅子と復刻されたものとではまるで違う。違いすぎる。復刻された椅子は背部を別物で接いであるが、微妙な曲線の連続の途中で別物を継ぐと歪が出ることぐらい椅子をデザインしたことのある人なら誰でもわかる。座も木が革になっていてその色も赤や白まであり、座の下部の貫の形状も全く違う。あまりにも今日的な造形に媚びている。これほどアレンジされると本当にアスプルンドのデザインなのか、と疑ってもよさそうに思うのだが、デザイン研究者は誰もこのことを指摘しない。それどころか、頭からアスプルンドのデザインとして評価しているのだから恐れ入る。今となっては、これも私の大いなる見誤りで、二度目の見誤り、戯言としておこう。(*3)
このところ、ジェネリック品といわれるものには、すでに亡くなった人のデザインを復刻したものやオリジナル当時の使用素材や仕上げなどと違うものが目につく。ビジネスとはいえ、デザイナーの名前を付す以上、次世代の若い人たちに誤解を招くような贋作はどうにかならないものかと思うこともしばしばだが、これも「ビジネスのためならなんでもあり」という時代の風なのだろうか。
復刻された椅子を見ると、「今、なぜアスプルンドなのか」という問いかけ自体が空虚に響く。イェーテボリで現在も使われている木の椅子の方がはるかにアスプルンドらしい名品であると思うのは、加齢とともに私のモノを見る力が衰えてきたのだろう。

*1:森の礼拝堂の門に書かれた言葉に「今日はあなた、明日はわたし」というのがある。
*2:福井工大の川島洋一助教授らが中心となったアスプルンド展実行委員会の企画により、2006年2月11日から東京・松下電工汐留ミュージアムで、9月25日から京都工芸繊維大学・美術工芸資料館において開催された。
*3:イタリア・カッシーナ社のイ・マエストリコレクションとして1981年に復刻された。だが、これほどの椅子が海外の椅子の歴史や資料に出てこないのも不思議である。例えば「TASCHENの1000脚」にも出ていない。