No.67 ヨハン・ホルトとヤン・ドランガーの「スタンス」 1971

スエーデンが二回続きましたが、スエーデンといえばもう一回。時代は少し下がり70年代になりますが、椅子のカジュアル化の代表選手である「スタンス」について今月は書きます。

 ヨハン・ホルトはスエーデンのストックホルムに生まれ、国立美術工芸大学を卒業後フリーのデザイナーとして活動を始めるが、1970年に同窓のヤン・ドランガーと家具デザイン会社「イノベーター、innovator」を創設。翌年「スタンス、stuns」という椅子をデザイン開発し、1973年のケルン家具見本市に発表し脚光を浴びる。その後、ホルトは今日までイノベーター社を牽引する一方、スエーデンデザイン協会の会長も務めた。
 ヤン・ドランガーは、80年代に入りホルトとは別に、地球環境問題の高まりから燃やしても有毒ガスなどを発生しないプラスティックに空気を詰め、布地でカバーする家具(inflatable furniture)(*1)をデザイン開発。使用材料や輸送コストの軽減など100%環境にやさしい家具としてイケア(IKEA)(*2)の考え方に合致し、80年代半ばからイケアを通して販売された。1999年には環境デザイン賞(ハノーバーIF)を受賞。
 「スタンス」はこれまでの家具の概念を破るいくつもの要素を持っていた。箱に収められたスティールパイプとキャンバスのパーツをユーザーが自ら持ち帰り、6本のねじで組み立てることができ、クッションはキャンバス地でカバーを取り外し洗濯が可能。従って価格は安価で、色も黄色を中心にブルーや緑など5色。スエーデンでは30年代以後の「スエディシュモダン」の再来とまで言われて評価された。世界の多くの美術館でコレクションにもなっている。
 ヨハン・ホルトによるイノベーター社は、その後も地球環境の視点と低価格に注力し、一言で言えば「Simple is best」の 一貫したコンセプトで今日まで多くの製品を世に送り出しているが、「スタンス」は彼らの理念を最もよくあらわした椅子。日本では村田合同がライセンス契約を結び今日まで展開し、わが国でも70年代半ばから後半には若者の家具として大いに評判を呼んだ。
デザイン:ヨハン・ホルト(Johan Huldt 1942 〜)
ヤン・ドランガー(Jan Dranger 1941 〜)
製  造:イノベーター(innovator)
*1:ヤン・ドランガーがデザイン開発した空気を詰め込む椅子(inflatable furniture)は60年代にデザインされた「ブロウ」などの造形から発想した空気の椅子とは基本的に異なる。「ブロウ」などは塩化ビニール(PVC)を使ったが、ドランガーの椅子は科学技術を生かした環境問題からのアプローチである。
*2:イケア(IKEA)は、スエーデンのイングヴァル・カンプラード(Ingvar Kamprad)が安売り雑貨店として1943年に創業した会社であるが53年ごろから家具販売を手がける。家具を分解して箱に詰め、ユーザーが持ち帰り組み立てるという安価な家具のデザインと流通システムを確立。60年代の中ごろからヨーロッパを中心に世界中に進出。日本では1974年に進出するも悪条件が重なり一時撤退したが、2006年に千葉の船橋に再進出した。

ジーンズのハートをもつ椅子「スタンス」、その成立した時代
 最近は、ミッドセンチュリーの高価なヴィンテージものの椅子を若い人が買うという。それも、使うというより骨董品のように楽しむために。時代は豊かになったものである。
 若い人が、自分が使う椅子を自由に選び買う。今ではごくあたりまえのことだが、60年代までは考えられず、家具は大人が工面をして買う耐久消費財であった。それを打ち砕いたのがスエーデンからやってきたその名も「スタンス」という椅子の革命児。
 だが、正直に言おう。初めて「スタンス」に出会ったときは単なる使い捨ての、また仮の住まいの「間に合わせの椅子」、椅子のファンシーケース版としか私には映らなかった。というのも、なさけないかな、ハーマンミラー社のモノづくりやデザインをアメリカで学び帰国して間もない私にとっては、オーソドックスというか耐久消費財としての椅子のつくり方とそのデザインにしか目が向いていなかったからで、実に迂闊なことであった。
 「スタンス」が評判を呼び、売れ出したのは70年代の中ごろからだったと記憶するが、それは経済成長と住環境の変化に起因する。マンションと呼ばれる集合住宅が増え、家の中で子供部屋は洋室になった。学生下宿も和室から洋室になると机や椅子がなければその日から生活ができず、「ファンシーケース」という簡易洋服ダンスや本棚にもなる「カラーボックス」という箱がバカ売れした。価格が安いという点も大きかったが、このころから若者が自分で家具を選び買う時代になったのである。
 われわれの時代の学生下宿といえば、畳の部屋しかなく、当時の家賃は一畳当たり1,000円と畳の数で計算されていた。家具は平机とほかにあっても小さな本箱ぐらい。私の場合、最初はみかん箱(*3)の上に製図版をのせて机にしていた。椅子やベッドがなかったのはもちろん、布団は万年床で、友達が来ればくるくると巻いて座ったときの背もたれになった。これも便利で、ヨハン・ホルトがめざした「Simple is best」である。
 60年代後半から海外の家具、とりわけ椅子の輸入や日本でのライセンス生産が盛んになったのは、なによりわが国の経済成長によるところが大きいのだが、むしろ海外のメーカーが大阪万博(1970年開催)でのビジネスをあてこみ進出してきたといってよい。大阪万博の意義をその後の日本のデザインという観点でいえば、6,300万人もの日本人が初めて海外の文化や造形に直にふれたことによって造形や色彩に対する感性を刺激されたことが一番。それを中高生として体験した若者への影響は計り知れないものがあった。1973年ごろの「スタンス」の雑誌広告に「ジーンズのハートをもつ家具」というコピーがあるが、みごとに「家具のカジュアル化」の火付け役を果たした。(*4)
 「スタンス」をはじめとして70年代後半の「イノベーター」や「イケア」の成功を見るにつけ、自らの展開力のなさに地団駄を踏んだことが今となっては懐かしくもある。彼らより10年も前の1963年、箱詰めしたパーツをユーザーが持ち帰り組み立てる椅子(スツール)をデザインしていたのだから。それも構想だけでなく、丹下健三ら当時のスターデザイナーが審査員の天童木工のデザインコンペで受賞し、同時にイタリアでも評価された。が、給料の何倍もの賞金だけに満足して、次の展開に結びつけ得なかったのはそうした「時代背景」とビジネスに対する私自身の未熟さでもあった。この時の構想を、今でいう「コンセプト」をビジネスにまで展開していたら、と思うのは残念ながら「アトノマツリ」である。
 しかし、「スタンス」が10年前に誕生していても売れなかったであろう。評価の対象となるデザインはタイミング、時代とともにある。それがデザインなのだから……。
*3:段ボール箱がなかった1950年代はミカンなど果物は木箱に入れて流通されていた。子供のころそれをつぶして風呂を焚いていた。
*4:1973年の雑誌広告によれば、スタンスの価格は11,000円。当時の大学出の初任給は6万円前後。参考までに、1961年の私の初任給は13,800円であった。