No.68 ピーター・オプスヴィックのバランスチェア「バリアブル」1969

先月はスエーデンの「スタンス」だったので、今月は隣の国ノルウェーで、時代は少し後になりますが、やはり椅子の概念を変 えた「バランスチェア」。その代表選手である「バリアブル」です。

 ピーター·オプスヴィックはノルウェーのオスロに生まれ、1963年にベルゲン美術大学を卒業後、二年間ノルウェー州立大学でも学ぶ。1965年から工業デ ザイナーとしてタンドバーグラジオ会社に勤務。この間、奨学金を得てロンドンやドイツのエッセンで も研鑽を積み1970年に独立。1972年にはストッケ社 から子供用椅子「トリップ・トラップ」を発表して大成功をおさめる。この椅子は食卓などで子供が親と 同じ高さの目線を保てるように座の高さを14段階にも調節できる機能性と木によるシンプルな造形が評価され、現在までに世界中で300万脚以上もの販売実 績を誇るベストセラーとなっている。その後、オヴスヴィックは椅子の座り方を革新したバランスチェア「バリアブル」をデザイン。これを契機にバランスチェアの考え方を踏襲した「グラヴィティ、Gravity」(1983) や「ザンソノト、Thatsit」(1992)という名の椅子をデザインしている。バランスチェアは、ハンス·クリスチャン·メンツョール(Hans Christian Mengshoell)が人間の背骨の構造から提唱。プロデュースした「新たな座姿勢」を 具現化した椅子の総称で、現在ストッケ社以外でも「バランスチェア」はつくられている。(*1)
「バランス理論」(*2)ともいうべきこの考え方は、人間が二足歩行を始めたときから背骨はS字形に進化し、背骨がS字形をしているときが人間にとって無理のない姿勢である。人間が垂直姿勢で椅子に腰掛けるとき股関節は90度に曲がらず、大腿部は股関節のと ころで約60度傾き、腰椎部に無理な負担をかけるこ とになる。しかし、大腿部が下方に30度傾いた姿勢をとると背骨がS字形を保ち、体の重心が座面の真上にあるバランスの取れた座り方を実現できる。これがバランスチェアを誕生させた考え方で、乗馬時 の姿勢がこれにあなる。「バリアブル」は赢のような成型合板のフレームと傾斜した座と膝あてがあるだけで、数種類あるパラ ンスチェアの中でもシンプルで典型的な最初の椅子。 1979年のスカンディナビア·ファニチャーフェアーで発表し、注目されたがビジネスとしては全く不調であった。しかし、スカンディナビアの人たちの身体に対する感受性に支えられ、念日ではビジネスとして成立している。フレームを離のような形状にしたのは姿勢の変化に柔軟に対応するためだが、水平の座としての従来からの座り方も可能である。日本で は㈱スキャンデックスが輸入·販売している。

覆った「座る」という概念
「座ってみませんか」 銀座·松屋の家具売場を歩いていると、突然声をかけられたのが「バリアブル」との最初の出会い。輸入されはじめたころだから、かれこれ25年以上前のことになる。「座れ」と言われても、座らしきものは傾いているし、脚は湾曲した橇状(そりじょう)で不安定そのもの。おまけに 背がない。どうして座るのかと躊躇していると、座り方を見せてくれた。怖いものに触れるようにおそ るおそる座ってみるとなんだか窮屈だが、一分もた たないうちに背筋が伸び、腰がなんとなくらくに感じたのは腰痛という私の宿痾(しゅくあ)のせいであった。デザインをはじめたころから、椅子の座は水平か後方に傾斜するものとして信じて疑わなかった。60年代半ば、日本でも当時の千葉大学·小原教授が「椅子の人間工学」を提唱。1965年、私が留学中のアメリカで教授のお手伝いをしたこともあったが、その時 も椅子の座は水平か後方に傾斜することが前提。それがなんと、座が前傾しているのだから驚きである。ぶったまげて、少しばかり資料を探してみた。生理 学者マンダルがバランスチェアの理論を生理学的に 記述した記事を見つけたのもそのとき。文中に子供 が学習する姿勢の図や乗馬の写真があったと記憶し てx20また、うつむいた姿勢で手仕事をする職人 が胡座をかいた尻のうしろに座布団を二つに折って当てていることも知ったが、これなどは職人の無意 識の知恵である。そういう私も、この数年、あまり の整理の悪さから書斎がごみだめとなり、腰痛にもかかわらず居間の座卓でこの原稿を書いているのだ が、座布団を折って尻の後部に当てたりしてしのい でいる。バランスチェアのプロデューサーであるメンショールが、安楽椅子に座り低いテーブル上のモノを扱うときの不具合さからバランスチェアの考え 方が生まれたというから、私の座卓での作業とまっ たく同じである。この25年間の「バランス理論」にまつわる話は多くてとても書きつくせないが、オフィス環境が変革を 始めた80年代初頭、座が前傾するドイツの事務用椅子をある企業に紹介したこともあるし、膝あてのパットがつけられない事務用椅子で臀部が滑り落ちない適正な前傾角度を調べるための実験もした。また、この考え方による座椅子や座の後部を少しあげたヒ アップタイプの学習椅子をデザインしたことも ある言うまでもなく、腰痛の人への座り方のアド バイスも。しかしながら、「バリアブル」はある特定の目的と限られた時間の使用には素晴らしい効果を発揮する が、欠点は座の前傾角度が大きく臀部のずれ落ちを防ぐために膝を支えるパットが不可欠で、座るとき の面倒くささと座ったときの脚の窮屈感、フレキシ ビリティがまったくない点にある。テレビを見なが らくつろぐときなどに「バリアブル」に座る人はまず いないだろ,椅子における人間工学というのは、 座る人間の気分や座っているときの目的や時間、脚も含めた姿勢のフレキシビリティなど多様な要素をパラメーターとして総合しなければならないのだが、そんなことは絶対不可能なこと。さらに、デザインとなると、椅子と人間や空間との間には形而上の要 素が多すぎる。このあたりのことを抜きにして、 間工学」の一面性を切り札のように振りかざすととんでもないことになる。椅子は単に座るための道具だが、言うほど単純なものではない。 たかが椅子のことだが、オプスヴィックの「パリアブル」には椅子の概念を覆され、脳天を打ちのめ された。活かすべき点の多い考え方が、20世紀の椅子の歴史に一石を投じた一脚を生んだのである。
デザイン:ピーターオプスヴィック (Peter Opsvik 1939~)
製造:ストッケ社(Stokke)
*1:1978年にメンショールが、安楽椅子に座ったままで低 いテーブル上のモノを扱うときの背骨の不具合さか ら着想された「椅子の座り方」で、三人のデザイナー、 オプスヴィック、リッケン(Oddvin Rikken),グスル (Svein Gusrud)にデザインを依頼。その結果、それ ぞれの個性を生かしたバランスチェアが誕生した。現在ではストッケ社のほかHAG社とRybo社で「balans] の登録商標のもとに異なるバランスチェアが製造されている。英語ではKneeling chairともいわれる。
*2:理論的に裏づけをしたのはデンマークの生理学者、マンダル。