No.69 オスワルド・ボルサーニの可変する椅子「P40」 1954

今月から中断していたイタリアへもどります。少し古いところからはじめますが、今月は椅子の背や座を動かせて多くの姿勢に対応させた近代デザイン史上最初の椅子。ボルサーニの可変する椅子です。

 オスワルド・ボルサーニはイタリアのミラノに生まれ、ミラノ工科大学を卒業。家業の家具工房で働きながら1933年の第5回ミラノトリエンナーレに参加し銀賞を受賞。1953年には兄弟で家具会社テクノ(Tecno)を創設し、「P40」や「D70」を発表。以後、終生テクノ社のデザインディレクターとして、パブリックやオフィスの家具を中心に家具づくりに工業化とインダストリアルデザインを導入して高品質の家具をつくり続けた。
 アルヴァ・アアルトが自らのデザインを展開するためにアルテック社をつくったが、ボルサーニはテクノ社で「P40」をはじめとした彼自身のデザインした製品も多くあるが、テクノ社のマネジメントとして多くのデザイナーの力を生かし、イタリアでは数少ないオフィスやパブリック家具の世界的企業へと育てた。新しいところでは、1985年にノーマン・フォスター(*1)が設計した香港上海銀行のためにデザインしたオフィス家具「ノモス、Nomos」はハイテク時代にふさわしいデザイン。ボルサーニの没後であるが、90年代になってエミリオ・アンバース(*2)が事務用椅子のシリーズをデザインし、これらはいずれも黄金コンパス賞を受賞している。 
 「P40」は背や座とフットレストの各部分をギアーを使って動かせ、468ものパターンをつくり出したという。椅子の一部を動かせて多くの姿勢に対応させることを可能にした椅子のさきがけとして歴史に残る貴重な椅子。肘も固定したものではなくフレキシブルなものとしたことは必然であるが、80年代の事務用椅子における肘を予見している。
 他にボルサーニ自身のデザインでは、「P40」のソファタイプでベッドにもなる「D70」のほか、折りたたみ椅子やデイベッドなど機構を使ったものが特徴だが、収納家具やテーブルなども数多くある。
 50年代、椅子のデザインに機械設計の手法を持ち込んだ最初のデザイナーであり、「P40」は近代デザイン史上可変する椅子の最初の代表。
デザイン:オスワルド・ボルサーニ(Osvaldo Borsani 1911〜85)
製  造:テクノ社(Tecno)
*1:ノーマン・フォスター(Norman Robert Foster 1935〜)は現代イギリスを代表する世界的建築家で、ナイトの称号を持つ。世界中でプロジェクトをこなし、数多くの受賞歴があるが、1987年に日本の国際デザイン協会からデザイン・アウォードを受賞。香港上海銀行(1985)は初期の代表作。
*2:「家具タイムズ」635号参照。

可変する椅子からデザインマネジメントへ
 椅子がその姿を変えていく。それも七変化どころではなく無数に。ボルサーニの「P40」に出会ったとき、可変する完成度に驚嘆した。それも1954年(*1)のデザインと知って。
 人間は、身体の安定や休息のために椅子に腰をおろすが、目的や時間、さらに気分によりその姿勢はさまざま。椅子の背や座を動かせて座る人の姿勢に対応させることが世界的に大流行したのは、70年代末からの事務用椅子であるが、それ以前からも試みられてきた。
 有名なところでは、コルヴィジェが椅子の背の角度を変えようとした「LC1」があるが、まだまだプリミティブなレベル。「P40」は資料によると468ものパターンを構成するという。一見ウソのような話である。ただ、この数字に時代を感じるのは80年代のようにガスシリンダーでなくギアーを使っていたからで、いずれにしても、「P40」は背や座を動かせて多くの姿勢に対応させた最初の椅子で、その造形とともに完成度の高さで歴史に登場するのは当然のことだろう。
 このところ若い人の間で、椅子のデザインに興味を抱く人が増え驚くような博識の人に出会うこともある。ある種ファッションのような様相。これはジャーナリズムがつくりあげたものだから一面的になるのも仕方ないが、ボルサーニや彼が創った「テクノ」という会社の名前などはめったに聞くことがない。「どうして『P40』のような椅子を100脚の中に入れるの?」と言う人もいるだろう。だが、私以外にも評価している人がいる。多少の偏見はあるが、キャラ・グリーンバーグは『ミッド・センチュリー・モダン』(*2)の中でイームズのFRPの椅子やヤコブセンのエッグチェアなどと並んでミッド・センチュリーの椅子のベスト・テンに「P40」をあげている。
 ボルサーニ兄弟が創った「テクノ」という会社には、ちょっと変わった「T」のロゴマークとともに70年末からいつも気になる存在であった。オフィス家具ではキャステリ社とともにイタリアを代表する企業で、二年に一度ドイツで開かれる展示会(*3)では必ず立ち寄るブース。いつだったか、真っ赤な四脚のプラスティックのシェルがテーブルと連結されたカフェテリア用のセットはいまでも鮮やかに記憶に残っている。さらに、ボルサーニが最後にプロデュースしたかもしれないノーマン・フォスターの「ノモス」。これが発表されたときは「衝撃」と「納得」が交錯した変な気分であった。
 というのも、もう25年も前の話になるが、ある大手商社が香港上海銀行でのビジネスを企画。私が「システム8000」というオフィスのシステム家具をデザインしたのがきっかけで、デザインも抱き合わせてビジネスにしようと香港へ同行したことがある。建築中の香港上海銀行を横目で見ながら、現場事務所で一時間あまりの話で終わり、翌日大阪に着くと24時間だけ大阪を離れていたことになり、海外へ出た最短記録であった。結果としてビジネスの話にもならなかったのは当然で、このとき「ノモス」 のデザイン開発が進んでいたのだ。後になってわかったバカみたいな話である。
 その後フォスターに会ったのは1987年。彼が国際デザイン交流協会のデザイン・アウォードを受賞し、その記念講演会のために私が用意した二台のプロジェクターの光量が異なるとごねだし、英国から連れてきた事務所のスタッフも部屋から追い出して、一台分に再編集しているときの彼の狂気迫る血相はいまでも忘れられない。
 生前のボルサーニが「ノモス」の製品企画に関わったかどうかはわからないが、「ノモス」は来るべき時代をとらえられた製品であったことは確かである。
 が、それ以後「ノモス」の評判をあまり聞かない。どうなっているのだろうか。
*1:1954年当時の日本の状況を参考までに記すと、いまだ「戦後」という時代で経済も高度成長以前の貧しい状況。14インチの白黒テレビが町の電気店に初めて登場し、多くの人が店頭でそれを取り囲み力道山とシャープ兄弟のプロレスを見ていた時代。事件では、今、北朝鮮の「核」が問題となっているが、日本のマグロ漁船(第五福竜丸)がビキニ環礁でアメリカの水爆実験により被爆。
*2:Cara Greenberg, Mid-Century Modern, Harmony Books P.74〜79
*3:オルガテクニック(ORGATECHNIK)というオフィスを中心とした世界最大の国際的な家具の展示会。2年に一度ドイツのケルンで開催されていた。