No.104 柳宗理のバタフライスツール 1956

永く続いた小欄も今月で最終回になりました。「なぜとり上げないのか」と思われた方もおられたと思いますが、今月は「取り」に予定していた日本産の世界で知られた唯一の椅子、柳宗理のバタフライスツールです。

 柳宗理は1915年に柳宗悦(日本の民藝運動の先駆者)の長男として東京・原宿で生まれ、1934年に東京美術学校の洋画科を卒業。在学中に建築家、ル・コルビジェを知って建築やデザインに関心を深め、卒業後は坂倉準三建築研究所に入所。1940年には商工省の招きで来日したシャルロット・ペリアンの国内視察1に同行し大きな影響を受ける。1950年に柳工業デザイン研究所を設立し、今日まで幅広くデザイン活動をする一方、金沢美術工芸大学の教授としてデザイン教育にも携り、日本民藝館の館長も勤め、2002年には文化功労賞を受賞。
 バタフライスツールの開発は、1956年に開催を予定していた「柳工業デザイン研究会の個展」に出品するために、その二年前の1954年に仙台の産業工芸試験所へアイデアを持ち込んだことから始まった。そのとき産業工芸試験所の乾三郎②(後に天童木工へ移る)が天童木工を紹介。同社にとっても三次元の成型合板は初めてで、「型」の製作などに苦労を重ね完成までに3年近くを要し完成した。後に、柳が「天童木工の技術力がなければ、バタフライスツールは生まれなかった」と言うが、天童木工にとってもこれを製作することで、日本の家具業界に成型合板技術を生かした家具づくりのパイオニアとしての地位を築くことになった。
 バタフライスツールはユニークな三次元の成型合板二枚をジョイント(接点を2個のボルトで、脚部に当たるところを一本のステーで固定)することで完成するというシンプルな構成で、側面から見るとどこか日本的な香りがする造形が世界で注目を浴び、「使用」という点ではそれほど有効ではないが、柳の造形のシンボルとなっている。1994年にはスイスのヴォーンペダルフ社(Wohnbedarf、スイス)が取り扱い、現在ではヴィトラ社にライセンスが移り造られている。ニューヨーク近代美術館のパーマネントコレクションにもなった。
 椅子では他に、通称「象脚」(1954)と呼ばれるFRPのスツール(コトブキが製造)、木製の肘掛椅子やスツールなどがある。家具の他に歩道橋や東名高速道路の防音壁などの公共のものもあるが、昨今若者の間で評価の高いものにカトラリー、ステンレスや鉄器の鍋、陶磁器の食器類などの台所用品がある。これらは「手」で模索し、創り出された「柳ワールド」の典型である。
 バタフライスツールは日本で生まれ、唯一世界で知られた椅子として、今も光芒を放っている。
デザイン:柳宗理(1915〜)
製造: 天童木工

グローバリズムの中、日本産の椅子は?
 戦後、日本で造られた数ある椅子の中で、世界で広く知られたのは柳宗理のバタフライスツールのみ。さびしいかぎりである。
 輸出なくして戦後の経済が成り立たなかったわが国は、モノづくりを通して科学技術を発展させ、時にはデザインもあいまって価値を高めた製品を輸出することで今日の繁栄を築いてきた。
 にもかかわらず、家具(椅子)に関して言えば、今では輸出どころか、海外で通用する椅子も生まれないのはどうしてなのだろうか。
 ただし、ここで一言断っておく必要がある。今では信じられないことだが、バタフライスツールが生まれたころ椅子が輸出品の中で大きなウエイトを占め、1960年には、驚くなかれ家具が対米輸出総額の15%を占めていたという事実である。
 1965年、アメリカへ留学するということになり「日本のことも知っておけ」という上司の計らいで高山の飛騨産業を訪れたとき、会議室の壁に大きなアメリカ地図が貼られ、その上にバイヤーの営業拠点らしき主要都市に目印の旗かなにかが林立していたのを覚えている。同社ではピーク時には年間10万脚以上の椅子を輸出していたというから3、驚きであった。しかし、これは日本の労働力が安かったころの話で輸出された椅子は全てアメリカのバイヤーによる注文品。残念ながら日本のデザインはそのかけらもなかった。
 バタフライスツール以後、世界で通用する椅子がどうして日本で生まれないのか。
 わが国にはモノづくりの科学技術、況や椅子づくり程度のテクノロジーは十分すぎるほどある。デザイン力の有無でいえば、自動車や家電などの工業製品では今や世界のトップレベルで、椅子においてもイタリアで活躍したデザイナーに高浜和秀や喜多俊之らもいる。それにもかかわらず「日本産」が海外へ進出できないのは、「椅子による生活文化がない」という一言に尽きるが、国内で家具産業が、海外市場までも視野に入れたデザイン主導の企業が育たないからで、日本人の家具に対する価値観が低いことにある。
 日本の自動車が未だヨチヨチ歩きの60年代中頃のアメリカで、定着しつつあった日本のブランドといえば、時計の「SEIKO」とカメラの「NIKON」であった。どちらも日本人が自らの収入などをかえりみず買いたくなるモノ、価値を認めるモノで、留学時に買った「ニコンF」は当時の給料三ヶ月分程度であったから私も日本人の典型である。三ヶ月分の収入でカメラを買うなどアメリカ人には絶対考えられないこと。経済力は何倍もあるにも関わらず、彼らの価値観は「カメラは写りさえすればよい」というもの。一般には玩具のようなコダックの「インスタマチック」で十分とし、プロは日本の「ニコン」を買えばよいというアメリカでは高級カメラ産業など必要なく、育ちようもなかった。椅子については、オフィスや公共空間に適する椅子は必要だからハーマンミラーやノールのような企業が生まれ、家庭用のウインザータイプの椅子は安く造れる日本から買えばよい、という経済合理主義が徹底していた。自国に潜在的な高い需要があるか、言い換えればモノに対する価値観があるか、がその国の産業を国際的に育てる基盤となっていた4。
 モノの生産と市場がますますグローバル化する今日、椅子の質やデザインに感心のある人は海外のブランド品を買えばよいとするなら、日本で国際的に通用する椅子づくりなど必要なく、今後も世界に出て行ける日本産の椅子は生まれようもないであろう。
 デザインに携る者としてはさびしいかぎりだが、グローバリゼーションとはそういうものである。
①:『家具タイムズ』630号参照。
②:乾三郎は家具の生産加工技術に熟達し、天童木工の発展に尽くしたが、彼自身のデザインに天童木工の有名な座卓(1959)がある。
③:飛騨産業では戦前(1935)から曲木による椅子を生産しアメリカへ輸出していたが、戦後はウインザータイプの椅子を中心に膨大な数量を輸出していた。—飛騨産業株式会社70年史
④:くだんのことですが、大多数のアメリカ人が家庭で使う家具はモダンデザインでなく、木製のアンティックまがいのものであることは小欄でもたびたび述べてきました。が、公共用(オフィスなど)に限っては建築空間との関係からモダンな家具が必要となり、モダンデザインに目覚めた経営者とデザイナーの活躍によってハーマンミラーやノールという企業が育った。遅れてドイツでは強い理念を持った経営者がウイルクハーンやビトラという世界的企業に育てた。同業でも電話帳のようなカタログで規模と売上高の拡大を目指す日本のオフィス家具業界とではビジネスモデルが全く異なる。
参考文献:菅沢光政『天童木工』2008、美術出版社
島崎信『一脚の椅子・その背景』2002、建築資料研究社