No.73 ジャンカルロ・ピレッティの折りたたみ椅子「プリア」 1969

このところ、イタリアの正統派が続きましたが、今月も「いかに椅子を機能させるか」をコンセプトとするジャンカルロ・ピレッティの美しい折りたたみ椅子「プリア」です。

 ジャンカルロ・ピレッティは1940年イタリアのボローニャで生まれ、ボローニャ芸術大学卒業後、カステリ社にデザイナーとして勤務。1965年に、カステリ社の看板商品となった公共空間のための椅子のシリーズ「DSC」をデザイン。続いて、折りたたみ椅子「プリア、Plia」によってピレッティの名が世界に知れ渡ることになった。
 「プリア」は前後に折りたたむという最も一般的な形式であるが、中央の回転部にクロームメッキされた長円パイプを差し込む構造で、座と背は透明のプラスティック。造形の美しさとともに、折りたたんだときの厚みが(回転機構の部分が少し飛び出るが)25ミリ(パイプの幅)と非常に薄く、それまでの折りたたみ椅子の概念を大きく変え、今日まで世界で700万脚以上製造・販売された。だが、透明の座や背が壊れそうなイメージで当初は不評であったという。(*1)
 同じ折りたたむ機構を持つ「プロナ、Plona」(イージーチェア)、「プラフ、Pluff 」(スツール)、「プラトーネ、Platone」(テーブル)という一連のシリーズをデザインしている。
 70年代から造形中心のイタリアの家具にあって、ピレッティはイームズを尊敬し、テクノロジカルな知識にたけるイタリアでは特異なデザイナーである。設計手法は「いかにモノを機能させるか」をコンセプトに、「メカニズムを駆使して座る人に対してより快適に」をモットーに椅子のデザインを続けたデザイナー。一世を風靡したエミリオ・アンバーツと共同でデザインした事務用椅子「ヴァーテブラ」(1976)(*2)はその顕著なもの。その他、「ピレッティ・コレクション」(1989)(*3)というシリーズがあり、1991年に日本のオカムラからも発売された。これは「セルフ・キャリブレーティング」という彼自身がつくり出した機能で、座る人の体重によって背もたれが角度を変え、座が可動して浮き上がるというオートマティックな調節機能を持つ椅子のシリーズ。その他、座を跳ね上げ水平に収納できる「トルシオン、Torsion」(1995)や「ノリア、Noria」(2000)という事務用椅子、「18,000」(2002)という垂直にも水平にも収納できる椅子などその数は多い。「デザインはファションではない。単に目を引くもの、外見だけのものではなく、使ってみてはっきり機能がわかるものがデザインの使命である」というように、ピレッティはバウハウス以来のモダニストである。
 「プリア」はニューヨーク近代美術館のコレクションにもなり、多くの賞を与えられた20世紀の折りたたみ椅子の名品。
デザイン:ジャンカルロ・ピレッティ(Giancarlo Piretti 1940〜)
製  造:キャステリ(Castelli)

ポストモダニズムがデザインを荒廃させた
 価格破壊がひどかった1990年代。入札競争にでもなると、スティールパイプの折りたたみ椅子が1000円以下でたたき売りされていた。
 当時、製造していた社長の嘆く声が今でも耳に残るが、バブル経済がはじけ、需給のバランスが崩れた結果である。
 持ち運ぶために椅子を折りたたむという起源はエジプト時代にまで遡る。以来、今日まで多くの折りたたむ形式とデザインが生まれてきたが、スティールパイプの折りたたみ椅子が現在巷にあふれている形式になったのは1930年代で、トーネット社で現在とほとんど変わらないものが製造されている。(*4)そして、戦後の日本で量産化が最も進んだ椅子で、時として価格競争のみで市場で取引され消耗品的に扱われる椅子となった。
 70年代末ごろから、「もう少し価格が高くても付加価値のある折りたたみ椅子のデザインを!」と冒頭の社長から依頼され続け、なんども試みてはみたものの、「日本の市場で、しかも売れるもの」という条件ではおいそれと納得できるデザインはできなかった。そんな時いつも気になる存在がピレッティの「プリア」で、透明の座や背も奇抜だが、この椅子の決定的な部分は座の横の一点で回転させる機構。25ミリの薄さに折りたたむことが可能になったのもこの機構あってのことだが、ピレッティにとってこれぐらいは朝飯前ではなかったか。以前このコラムで紹介した座が前方へスライドし、一時期ブームを巻き起こした事務用椅子の「ヴァーテブラ」。これをエミリオ・アンバーツとデザインしていたのだから。機構部分はピレッティがやったことに間違いない。
 だが、国もキャリアも異なるアンバーツとピレッティ。彼らにどのような出会いがあってあれだけの戦略的な椅子をデザインできたのだろうか。
 1972年5月、ニューヨーク近代美術館で「Italy:The New Domestic Landscape」と題した歴史的な展覧会(*5)が開催された。この展覧会はイタリアのデザインがアメリカで、いや世界で認知された近代デザイン史上記録されるべきもの。60年末までのイタリアのデザインを展望・紹介し、さらに気鋭の11人のデザイナーによる「環境」への提案という凄い企画で、これを企画したのがエミリオ・アンバーツ。このときピレッティも招かれアンバーツとの出会いがあったという。(*6)かつて、イタリアのデザインなど問題にもしなかったネルソン事務所時代の先輩から「よかったよ」というニューヨークからの手紙に、「見たかった」と残念な思いが募ったのはもうかれこれ35年も昔のことになる。
 ピレッティは、「バウハウスの神話に育てられ、その影響はブロイヤーとミース」と言うように、近代デザインの「機能」にこだわり続けるデザイナーである。80年代、家具ではイタリアを中心に吹き荒れた「ポストモダニズム」という麻疹のような造形の「はやり病」。彼がこの傾向にどれほど苦々しく思っていたか、それを知るのに次のような言説がある。
 「現在のイタリアンデザインはかってないほどごまかし(bluff)にみちていて、専門誌に発表されるデザインは馬鹿げたものばかり。ポストモダン以降、イタリアのデザインは道を失い、今あるのは流行ばかり。その荒廃は誰の目にも明らかで、アバァンギャルドはイタリアに混乱をもたらしたにすぎない」と。(*7)
 70年代以後、世界中が注目し、騒ぎ立てた自国(イタリア)のデザインをこれほど罵倒するデザイナーも珍しい。これには確固たる信念があってのことで、よくぞ言ってくれた。
 ポストモダニズム以後のイタリアのアバァンギャルドデザインの全てがピレッティの言うとおりとは思わないが、内心ニャッとして大いに拍手を送りたい気分である。
*1:Decio G.R.Carugati ,
Silvana Editoriale、2003、23頁
*2:「家具タイムズ」635号参照。
*3:雑誌『FP』No,43、1991 64〜67頁に「ピレッティが問いかけるデザイナーの自立性」として、「ピレッティ・コレクション」の紹介とインタビュー記事があるので参考にされたい。
*4:西川友武『軽金属家具』工業図書株式会社、1935、45頁
*5:多くの資料があるが、雑誌『SD』の1972年6月号に特集されたので参考にされたい。
*6:Ibid.,23頁
*7:岡村製作所のPR誌「lifescape」45、1991、22頁.