No.81 ミース・ファン・デル・ローエのキャンティレバーの椅子 MRチェア(MR10 ,MR20)1927と ブルーノチェア 1929〜30

デンマークの椅子をもう少し続ける予定でしたが、先月のパントンチェアがキャンティレバータイプの椅子であったので、今月は1920年代に鋼管によるキャンティレバーの椅子として世に出たミースの椅子をとりあげます。

 ルードヴィッヒ・ミース・ファン・デル・ローエは1886年ドイツのアーヘンで石工の家に生まれ、いろんな事務所で建築を学びながら次第に建築家として頭角を現し、1929年に近代建築の象徴ともされるバルセロナパビリオン(*1)を設計。1933年にアメリカへ渡り、シカゴを本拠地として多くの建築作品を残した20世紀を代表する建築家の一人である。
(建築の業績などは多くの資料があるので参考にされたい)
 ミースは空間の意味と使用形態を家具(椅子)によって形成させるために家具のデザインを重視し、多くの椅子のデザイン(スケッチを含め)を残しているが、今日製品化され目に触れることができるのは1926〜31年にデザインされたものである。代表作のバルセロナチェアとコーチなどを除けば、ほとんどがキャンティレバータイプの椅子で、サイドチェアとしてはMRチェアとブルーノチェア。安楽椅子タイプではチューゲンハットチェア(1929〜30)にラウンジチェア(1931)やシェーズ・ロング(1931)がある。
 鋼管よるキャンティレバーの椅子を最初に構想・デザインしたのはマルト・スタム(*2)とされている。1926年、彼は妻のためにガス管をL型のジョイント金具で接続したキャンティレバーの椅子をつくったが、ヴァイセンホーフ・ジードルンク(1927年7月23日から開催されたドイツ工作連盟が主催した住宅展)の全体計画をしていたミースに、前年の11月22日のミーティングでそのスケッチを見せたことが契機となってMRチェアが誕生した。その間の事情をミースの事務所にいたセルジウス・リューゲンベルグ(*3)が「1926年の11月にミースがシュトゥットガルトから帰ってきて、事務所の壁のボードにスタムの椅子を描き、ジョイトの醜さを指摘、その上にシンプルなカーブを描いた」と言う。その二日後、彼が原寸図を描き、プロトタイプは25ミリのパイプで赤色のエナメルで塗装された。これがMRチェアの誕生の裏話で、スタムのものとは異なり、鋼管のばね弾性を利用した美しい形態で、ミースは特許をも取得した。
 MRチェアはスタムの椅子(*4)と共に鋼管によるキャンティレバーの椅子としてヴァイセンホーフ・ジードルンクのお互いの室内に展示され、近代デザイン史上に記録される歴史的な一頁となった。
 ブルーノチェア(Brno)はチューゲンハット邸(*5)を設計したときにデザインされた。当初、ミースはMRチェアを使うつもりであったが、大きすぎることや食事のためにテーブルに引き寄せられるようにデザインしなおし、座と背には布を張りエレガントに見せている。最初は鋼管であったが、現在ではフラットバーのバージョンのほうがよく知られている。一体となった座と背がフレームに二箇所、左右四箇所で固定されたミースならではの見事な構造。スティールによるキャンティレバータイプの椅子(サイドチェア)の完成形。
デザイン:ルードヴィッヒ・ミース・ファン・デル・ローエ(Ludwing Mies van der Rohe 1886〜1969)
製造: MRチェア:1929年の当初はヨセフ・ミュー社(Berliner Metallgewerbe Joseph Muller)
1964年以後はアメリカのノール社(Knoll)ブルーノチェア:1929〜30年はヨセフ・ミュー社で1960年以後はノール社(Knoll)

近くて遠かったファンズワース邸
 「木立の中の湖に降り立つ白鳥」
 ファンズワース邸(*6)のことをこう表現した友人が「見に行くのは危険だぞ」と真顔で脅す。シカゴでの学生時代、観てみたいという気持ちが嵩じていたときのこと。彼の話によると、「最近、雑木林の間から建物を見に来るやつが増え、その上カメラを向けるので、住人のおばあちゃん(*7)が怒って銃を構えて追っ払う」と言うのである。本当か嘘かはわからなかったが、なにせガラスで囲われたあの住まいだから、住む側の立場になればもっともな気がしたし、他人の家をのぞき見することになんとなく罪悪感に駆られ、教授に紹介してもらうことも考えたが、それも億劫になり、残念ながらギブアップしたのだが、どうなろうとカメラを持ってのぞき見に行く根性とお金がなかった、というのが本当のところである。
 今はまったくちがう。ライトの落水荘もそうだが、一つには公的機関が管理するようになったことで、それなりのルールにより予約すれば誰でも見学することが可能である。しかしなによりも、当時と比べて日本が金持ちになったのだ。お金さえ出せばなんでも安易に見ることができるし、また、雑誌やテレビで見せることができる時代で、彼らの金を使った情報収集力は驚くほどすさまじい。今から10年近く前のことになるが、たまたまテレビのスイッチを入れると、MRチェアが食事をする場所としてしつらえられているファンズワース邸が画面いっぱいに現れ、驚いた。女優らしき若い女性がイームズ邸から落水荘やファンズワース邸、さらにロンシャンの教会まで、紹介というよりまるでテレビショッピングのコメンテーターのように、自ら感心し続けるテレビ番組まであるのだから、時代は変わったというほかはない。私の学生時代とは隔世の感で、これも日本が金満大国になった証である。
 1987年、二度目の滞米中にもファンズワース邸を見たい気持ちに変わりはなかったが、学生時代のように気楽なドライバーはいない。チャンスはあったが、タイミングが合わず断念せざるをえなかった。
 だが、ファンズワース邸といえば、思い出すのがその年に行われたIIT・ID(*8)の50周年事業。ミースやモホリ・ナジ(*9)が1937年アメリカへ亡命し、シカゴに「ニュー・バウハウス」(*10)をつくって50年目の1987年。幸運にもいろいろな記念のイベントにめぐり合った。そのひとつに、寄付物品のオークションパーテイがクラウンホールで開かれた。寄付されたものはさまざまで、ミースのスケッチからイームズのラウンジチェアなど、さすがIITのことだけあってクラウンホールいっぱいに展示されたが、その中に変わった寄付があった。なんと三組(6人)をファンズワース邸で食事に招待するというのである。しかもオーナー(*11)お抱えのシェフがロンドンから来て料理をするというので、思わずよだれが。もちろんMRチェアかブルーノチェアに座ってのことだろうが、MRチェアでは「少しばかり食事がしにくいかな」と思うのは余計な心配。いくらの金額で競り落とされたかはわからなかったが、なんという「粋な」寄付か。IITらしいというか、そのセンスに唸った。日本でこの種の寄付といえばすぐお金となるが、お金でははかることのできない貴重な価値を寄贈するアイデアはなんとも素晴らしく、言葉が出なかった。
 今、机上にあるミースにしては珍しい淡い水彩絵具でほんの少しだけ彩色されたファンズワース邸のスケッチ(*12)を見ていると、子どものころ防空壕に避難しながらも毎日聞いたサンサーンスの「白鳥」を思い出す。その旋律が川面に映るまだ見ぬ白鳥のようなファンズワース邸のイメージと重なるが、シカゴという同じイリノイ州に二度も住みながら、プラノ(Plano)は私にとっていつまでも遠いところでしかなかった。
*1:『家具タイムズ』621号参照。
*2:マルト・スタム(Mart Stam 1899〜1986)はオランダの建築家で、バウハウスで教鞭をとっていたころガス管をL型のジョイントで構成したキャンティレバーの椅子を発案。鋼管によるキャンティレバーチェアの生みの親とされている。しかし、19世紀のトラクターのシートからアメリカのパテントにもなっている1889年の船の食堂椅子、1922年のハリー E. ナロンのアメリカのパテントなどその源流は多い。
*3:セルジウス・リューゲンベルグ(Sergius Ruegenberg 1903〜1996)は1925〜34年の間ミースの事務所にいてミースに代わり多くのスケッチを残した。彼は「バルセロナチェアも私のデザインだ」とも言う。彼のデザインではTECTA 社からキャンティレバーの椅子「D5」が商品化されている。
*4:このとき、スタムは二種類の椅子を発表。一つは背と座にベルトを編んだバージョンと、革で貫のある二本のパイプに吊られたもの(S43)。後者が最近復刻されている。
Axel Bruchhauser, Der Kragstuhl, Stuhimuseum Bad Beverungen, Berlin 1986, S.93 ,
尚、MRチェア誕生については前掲書51〜55頁、キャンティレバーの椅子については、124〜127頁。
*5:チューゲンハット邸(Tugendhat Villa)は1930年にかつてのチェコスロバキアのブルーノに建てられた住宅で、ミースの近代建築に対する考え方を具現した住宅の代表作の一つ。世界遺産にも登録されている。
*6:ファンズワース邸(Farnsworth House)は1951年に完成したミースの代表作の一つで、20世紀の最も美しい住宅といわれ、イリノイ州のプラノにある。前にFox Riverがあり、あたかも湖におりたった白鳥を連想させる。現在はナショナル・トラストが管理。
*7:1965年以前のことだから、このおばあちゃんはオーナーであったエディス・ファンズワースのことだろう。ミースとの間に多くの逸話もある。
*8:ニュー・バウハウスの流れを汲むデザイン教育の場はInstitute of Design(略してID) といい、日本ではよくデザイン研究所などと翻訳されるが、まちがいでイリノイ工科大学の中で独立した教育部門。日本でいうデザイン科のほうが近い。
*9:モホリ・ナジ(Laszio Moholy-Nagy、1895〜1945)はハンガリーで生まれドイツに渡りバウハウスで教鞭をとる。写真などビジュアルデザインの分野で先駆的な活動をした。著書の「Vision in Motion」は代表的な著作で、筆者の京都工芸繊維大学時代の教科書でもあった。
*10:1919年にドイツのワイマールに設立された近代デザイン教育のメッカ「バウハウス」が1933年ナチスによって閉校に追い込まれ、モホリ・ナジらが亡命先のアメリカ・シカゴで1937年に設立した教育機関。後にイリノイ工科大学(IIT)の一部となりミースのキャンパス計画と共にアメリカのモダンデザインに大きな足跡を残した。
*11:当時のオーナーは英国のピーター・パルンボ(Peter Palumbo)であったので、寄付者はパルンボ氏で、当日(1987年6月25日の土曜日)のホストもパルンボ夫妻であった。オークションはモリ・ナジの名前が付いた「Laszio Moholy-Nagy Benefit Auction」である。
*12:Werner Blaser,Mies van der Rohe ,Praeger,Inc.,P.112〜113
考文献:Ludwing Gleaser, Ludwing Mies van der Rohe −Furniture and Furniture Drawings, The Museum of Modern Art New York ,1977.
Vitra Design Museum, Mies van der Rohe, Skira,1998.
追加情報:『家具タイムズ』687号(6月号)のニールス・O・ムラーは1982年に亡くなっていましたので、追加の情報としてお知らせします。