No.86 チャールズ・イームズのプライウッドチェア (LCW、 DCW、LCM、 DCM)1945〜46

先月がサーリネンなので、今月はイームズです。これまでもイームズの椅子についはラウンジチェアなどを紹介してきましたが、今月は彼の最初の代表作であるプライウッドチェアで、経歴などについても触れておきます。

 チャールズ・イームズは1907年にアメリカ・ミズーリ州のセントルイスで生まれ、ワシントン大学で建築を学ぶが教授との考え方の違いから退学。ヨーロッパ旅行の後、故郷のセントルイスで設計活動を始めるが、1936年にクランブルック・アカデミーの学長・エリエル・サーリネン1に招かれ、その後の人生に大きな影響を受けた多くの人との出会いが生まれた。生涯のパートナーとなった妻のレイ・カイザーをはじめ、デザイナーとしての起点となった MoMAのコンペ(1940)で共同したエーロ・サーリネン。他にもベルトイア②や永年にわたりアシスタントを務めたアルビンソン③たちである。
 レイとの結婚後、1941年にはロサンジェルスに移り、当初は映画会社MGMの美術部で働きながら成型合板の研究・製作に没頭。自らが製作した「カザム、Kazam」と名づけた合板製造装置で背と座を一体とするシェル構造の椅子に挑戦する。その一方で、成型合板によるワンピースの子供用椅子や玩具(象が有名)などを製作。42年には成型合板の特性を活かしたレッグ・スプリント(負傷した兵士の添え木)を開発し、ビジネスとしても大きな成果を得た。また、後年発表のラウンジチェア(1956)の原型となるプロトタイプなども試みている。
 これら試行錯誤の末に、椅子の背と座を二枚の成型合板に分離、合板の脚部と組み合わせたプライウッドチェア④を完成。翌年には、脚部をスティールにしたLCM、DCMを発表。これらは薄く美しい形状の三次元成型合板の背と座に細いスティール・ロッドという簡明な構成で40年代半ばの椅子として革新的であると同時に、「量産性」という20世紀的視点からも最初の椅子。5
 この椅子が成立した要因の一つに、合板とスティールの接合にゴムのショックマウントを採用したことで、これは続いて開発したFRPの椅子にも採用された。当初LCM、DCMはエヴァンス社でつくられたが、50年以後はハーマンミラー社の看板商品となった。
 これ以後、イームズは建築では自邸(通称イームズハウス)、家具ではFRPによるシェル構造の椅子や収納家具、続いてラウンジチェアやアルミナムグループなどの椅子の名品を世に送り出し、60年代以後は映画や展示など情報デザインにも類まれな才能を発揮した20世紀を代表するスーパースターである。
(尚、イームズの椅子については『家具タイムズ』617号、633号参照)
デザイン:チャールズ・イームズ(Charles Eames 1907〜1978)
製造: ハーマンミラー社(Herman Miller.)(当初はエヴァンス社)

「群れ」をなした椅子の様相‒さんざめく三次元の曲面
 鋭い斜光に照らされた椅子の木目が波の如くにさんざめく。
 イリノイ工科大学(IIT)の学生寮の前にあるミースが設計した小さなチャペル。その中でDCMの座面の木目がさんざめくような錯覚を覚えたのは遠い昔。悩み多き日の夕映え時、ふとチャペルを覗いたときのことであった。憧れてアメリカに来たのはいいが、授業がはじまると言葉の不自由さはいかんともしがたく悩める日々が続いていた。
 というのも、「デザインは“お絵かき”ではないぞ」と殴打されていたのだ。その一つに、C・オウエン6の授業で初めて「computer」という語彙を知ったが、当時の日本では「電子計算機」としてほんの一部の大企業で給与計算などに利用されはじめたころである。7まさかデザインの授業で「電子計算機」が出てくるとは夢にも思わなかった。授業の冒頭に見せられたイームズが製作したコンピューターの原理を説く映画も記憶に残るが、それまで頭の中にあった「デザインを学ぶ」という概念とはまるで違っていた。毎週、月曜と金曜の夜に行われるダブリン教授のゼミでも、今でいう「マーケティング」などの市場分析の方法などが中心。教育内容が一新されていた。
 それにさかのぼる6年前の1959年、産業工芸試験所が鳴り物入りで招いたIITのダブリン教授のデザイン講習会8。それに参加し、感激した教官の話を学生時代に聞いたことが留学先をIITとする決定打になったのだが、印象に残ったのはペーパーモデルの作り方やスケッチの方法など具体的な「造形」に関わる部分。それがたったの5年で「コンピューター」である。コンピューターが世界で初めてデザイン教育の場に導入され、それも計算に使うのではなく方法論(methodology)の一環として、フローチャートを描きプログラムミングからスタートするのだが、今では見ることすらできないパンチカードを打つ機械があのクラウンホールに持ち込まれた。ミースが知ればきっと驚いたことだろう。9タイプライターすら使ったことのない私は人差し指一本でパンチカード打ちに立ち向かったが、コンピューターから出てきた答えは「アナタノプログラムハマチガイデス」のただ一言。泣きたい気持ちの連続であった。
 昨今日本のデザイン教育、それも現場のお粗末さには目を覆いたくなる。そこには「デザイン教育はいかに」などは死語同然で、社会悪とでもいったほうがよい大学もある。トップはやってはならないことまでして定員確保にのみ傾注し、教官は能力以前に人間としての資質に疑問がある上、自分の立場や利害しか考えない自己中心的な者がやたらと目につくのも現代社会の象徴なのだろうか。デザイン教育には「人間性」を培うことも重要で、「デザインする者はまず人格」という先達の言葉が真実味を増すこのごろである。
 話はそれたが、チャペルでDCMの一群にめぐり合い、「群れ」としての椅子のありようをこのとき初めて知った。今では考えられないことだが、当時、海外の椅子の名品は美術作品のように百貨店などの展覧会場で、それも単品を「見せていただく」といった状況。思わず冒頭に「さんざめく」と書いたが、三次元に成型された木目の座面が数多く並ぶことによって、光に照らされ煌いていたのだ。モダンデザインの椅子が群れをなすときの情景を初めて体験した一瞬。こんな体験を得ながら、30年も経った90年代、デンマークのヨハネス・フォーソムらの連続して置かれる姿を造形した「キャンパス・チェア」⑩に出会ったとき、思わず自らの展開力のなさに地団駄を踏んだ。
 イームズは苦闘しながらプライウッドチェアをつくりあげたが、50年前のチャペルでのさんざめきに奮い立ち苦闘していたなら、私の人生もまた違っていたのかもしれない。
①: 『家具タイムズ』626号参照。
②: 『家具タイムズ』627号参照。
③: 『家具タイムズ』628号参照。
④ : 脚部を成型合板としたLCM(ラウンジタイプ)とDCM(ダイニングタイプ)があるが、ハーマンミラー社では53年以後は生産されず、1994年から生産を再開。オリジナルとは合板のカーブなど微細な差異がある。脚部が金属のものはLCM、DCMと最後にMが付いている。
⑤:成型合板は5層の厚みが8ミリという驚異的な薄さで、ショックマウントなくしては脚部との接合は考えられない。脚部のスティール・ロッド(前後の脚と背を支持するロッドは微妙に太さが異なる)との組み合わせによるLCMとDCMは「科学技術の成果」 「人間工学的配慮」 「量産性」 「異種の材料の組み合わせ」などのキーワードを満たし、椅子の歴史を飾る名品。
⑥: チャールズ・L・オーエン(Charles L.Owen)はダブリン教授の後を継いだイリ ノイ工科大学の教授で、システムデザインや方法論が専門。彼は大学の学部時代には化学を学び、大学院でデザインを学んだ経歴で、当時は初めてIITの教壇に立った時。1983年には国際デザイン交流協会(2009年に解散)の第一回の国際コンペでグランプリに輝いた(賞金1000万円)。
⑦: アメリカでは企業や大学で使われはじめていたが、一般的には手回しの機械式計算機を使っていた時代。
⑧: 講習会は1959年10月に3週間にわたって開催され、戦後のわが国のプロダクトデザインに大きな影響を残した。その内容は『工芸ニュース』Vol.28、1960年1月号の7〜40頁に「デザインの発想とその展開」と題して、さらに続く二回で詳しく紹介された。
⑨: 当時はプログラミングをして計算機に入力するには「パンチカード」というカードに穴を開けたものによって行われていた。また、筆者の在籍中にキャンパスでミースにお目にかかることはなかったが、「2年前には車椅子に乗ってミースがクラウンホールに来た」と友人から聞いていた。
⑩: ここでは写真を出すことはできませんが、後日このコラムで取り上げる予定です。
参考文献:
John Neuhart Marilyn Neuhart Ray Eames,Eames design, Harry N.Abrams,Inc., 1989
イームズ展図録
「Eames Design Charles & Ray Eames」アプトインターナショナル、2001
The Work of Charles and Ray Eames,Harry N.Abrams,Inc.1997