No.87 イームズのプラスチックチェア (FRPによる一連のシェル構造の椅子)1948〜1953

今月も先月に続いてイームズで、このコラムの真打、FRPの椅子です。ようやく出てきたかと思われる方も多いでしょう。1940年代に誕生した椅子の革命児。私にとって初めて出会ったモダンデザインの椅子です。

 イームズは苦闘しながら成型合板の研究・開発に取り組み、座と背を一体化したワンピースのシェル構造の椅子を試みたが、同時に彼はプレスされたアルミやスティールが量産性のある椅子に適すると考え、1948年にニューヨークの近代美術館(MoMA)が開催した「ローコスト家具の国際コンペ」1にそれらの構想を具体化して応募。このとき他に、「ミニマムチェア、minimum chair」という「座るという機能を最小限で満たした椅子」や「ラ・シェーズ」②という名の遊びごころに満ちた優美な曲線の椅子も提案する。
 結果は2位に終わったが、1950年5月、応募案を実現・展示するにあたって戦争中に軍需用に開発された素材・FRP(ガラス繊維強化プラスチック)にめぐり合い、ジーニス・プラスチック社の協力を得て念願の一体型シェル構造の椅子を誕生させた。これは1940年に同じMoMAのコンペでサーリネンとの共同でデザインした椅子③から苦闘を重ねてたどり着いた成果である。20世紀の椅子の世界に初めてプラスチックを取り入れ、その特質を活かした造形と「量産性」というキーワードで椅子の世界に「革新」をもたらした。
 また、その後に発表されたワイヤーメッシュによるサイドチェアも背と座を一体化した椅子として一連のものである。
 FRPのシェルはアームチェアとサイドチェアタイプの二種類であるが、スタッキングを可能にしたものやロッカーの取り付いたもの、さらにキャスター付の事務用椅子などさまざまな脚部のアレンジと、布などのカバーリングにより多くのバージョンを生み、商業施設やオフィス、さらには空港などの公共空間にまで使用範囲を広げ、イームズの名が世界中にとどろくこととなった。
 この椅子は国産化されたこともあり1970年前後のわが国で最も普及した海外のモダンデザインの椅子。ただ残念なことに、ガラス繊維が焼却分解不可能という環境問題から1989年に製造が中止され、現在はドイツのヴィトラ社からごく少量とポリプロピレンに置き換え生産されている。
(前号も参照)
デザイン:チャールズ・イームズ(Charles Eames 1907〜1978)
製造: ハーマンミラー社(Herman Miller)

夢、その実現にむけて
 色は黄色であったか。
 生まれて初めて出会ったモダンデザインの椅子がイームズのFRPの椅子。大学二年生のときで、それも木造校舎の実習室でのこと。あれからもう半世紀以上も経ってしまった。
 学生食堂のうどんが10円であったころの話である。
 椅子を実測して作図するという課題で、対象として出された椅子が二脚。イームズのFRPのサイドチェアと、もう一つはルイ13世様式の装飾彫刻が施された背高椅子であった。どう考えてみてもシンプルな方が描くのに簡単そうだ、という単純な理由からモダンな方を選んだのだが、捉えようのない曲線の連続。どこから寸法を計ればよいのか、戸惑いながら悪戦苦闘したことを思い出す。作図中、「デザインしたのはイームズ」ということを知った程度で、当時はそれ以上の興味もなく、適当に提出して遊ぶことばかり考えていたのだからお粗末極まりない。それにしても、輸入することなど考えられなかった50年代後半に、どうして大学にあったのか、いま考えてみると不思議である。④
 それ以後、イームズの虜になっていったことは言うまでもない。
 そんな私がIITに留学中、「イームズの事務所で仕事をする」という念願の夢が実現しそうになった。「帰国する前にイームズかネルソンの事務所で働きたい」と教授(ジェイ・ダブリン)に懇請したとき、「今学期の成績がよければ」という条件も付いたが、最後になって「どちらにするか?」と問われ、おおいに迷ったあげくニューヨークという街の魅力にも惹かれ、永年の夢を自ら捨てたのは今考えても「苦衷の選択」であった。⑤
 イームズのFRPの椅子で思い出すのは、大学を卒業した年の1961年。当時の産業工芸試験所(IAI)がデザインしたFRPの椅子を柳宗理が「イームズの模倣だ」と言ったことから、IAIが『工芸ニュース』⑥誌上で「模倣ではない」と応戦したことである。今となっては懐かしいが、デザインの良否は格段の差。反論の一つに「フランジが40ミリでイームズのものより大きく、異なる」とあるが、なんとも哀れで自ら「ぶさいくです」ということを宣言しているようなもの。また、「ハーマンミラー社より公知が早かった」という点に関しては、こんなウソがまかり通った当時の日本はなんだったのか。
 FRPの椅子が日本で爆発的に売れたのは、大阪万博前後の1968年から72年のころ。「モダンファニチュアーセールス」という会社が伊勢丹の資本で設立され、ハーマンミラー社と契約を結び、国産化して販売活動を始めたのが67年。アメリカから帰国した私も宣伝に一役かったが、万博ムードも手伝って国際的な香りのする椅子として多用された。その要因の一つに、FRPの冷たい肌触りをやわらげるための布やビニールの上張りが見事な方法で取り付くトリム(エッジ)にあった。この方法は圧巻で、シェルが造れてもこれだけは他の追随を許さないハーマンミラー独自のもの。今、アメリカから持ち帰った回転椅子のバージョンでこの原稿を書いているのだが、40年以上もの酷使でホームラバーが劣化し、ビニールレザーが引っ張りに耐え切れずミシン目が裂けてきたが、他の椅子に変える気は毛頭ない。永い間私の仕事を支えてくれた大切な戦友なのだから。
 背と座が一体の三次元の椅子は、ミースをはじめ、椅子のデザインをしようとした人なら誰もが抱いた夢であった。それを成型合板からFRPという素材を経て実現させていくイームズの苦闘の物語は数多く語られている。イームズ以後も世界中でプラスチックによる背と座が一体の椅子が数多くつくられてきた。デイ⑦のポリプロピレンのものなどがその代表だが、「シェル構造の椅子はイームズに始まりイームズで終る」といってよいだろう。
① :このコンペは1948年にMoMAのカウフマンJr.の監督・指揮のもとに開催された。第二次世界大戦が終わり、大衆のための住まいに適した低価格で機能性に富む家具、過言すれば家具に「量産性」が求められた。コンペは一般公募と6組の指名チームによって行われ、イームズはカリフォルニア大学とチームを組み、応募費用5000ドルが6チームに与えられた。一般公募では、日本から坂倉準三や、既にこのコラムに登場したロビン・デイ、ハンス・ウエグナー、フランコ・アルビニなどデザイン史に残る人たちも入賞している。ミース・ファン・デル・ローエが審査員の一人であった。
②:当時は商品化されず、 1990年になってヴィトラ社によって復刻・生産されたが、MoMAの文献によると、1948年当時の制作費は27ドルであったとされる。
③: 『家具タイムズ』628号、サーリネンを参照。
参考文献:John Neuhart Marilyn Neuhart Ray Eames,Eames design, Harry N.Abrams,Inc., 1989
イームズ展図録「Eames Design Charles & Ray Eames」アプトインターナショナル、2001
④: 50年代後半といえば、アメリカで生産されて間もないころ。大学にあったということは教官か誰かがアメリカから持ち帰った寄贈品だろう。後述のIAIのイミテーション問題にもつながった筆者にとって忘れられない椅子。筆者がネルソン事務所在籍当時、PR写真の撮影のためにサイドチェアを中央で切断したものなどが数多くスタジオに転がっていて、一つを持ち帰り大学へ寄贈したが、遠くの昔にゴミとなったことだろう。今となっては笑い話のようなことである。
⑤: 学期末になっておそるおそる教授(ジェイ)に言うと、その場でイームズとネルソンに電話をするジェイにも驚かされた。というのも、当時のアメリカで二人は大スターであったし、待つこと少しで答えが返ってきた。
⑥: 『工芸ニュース』1961年8月号、50〜51頁。
 その中で「公知の時期に関して、IAIのものは1955年でイームズのものが雑誌に掲載されたのが同年12月号で、発売は翌年であるから公知の点ではIAIのほうが早かった」との反論が当時の『工芸ニュース』に掲載された。掲載された雑誌というのは日本の雑誌なのだろうが、また「発売」とはどこでのことなのか。日本政府の試験所が自ら編集する雑誌にこんな記事を載せたことは何ということか。ましてや、IAIの要職にあった剣持勇は1952年に渡米しアメリカのデザイン事情の中で、同じく豊口克平は『工芸ニュース』(1954年の4月号)でイームズの椅子を紹介していることとどのように説明できるのか。なんとも不思議なことであった。
⑦: 『家具タイムズ』636号参照。