No.91 イエンス・ニールセンの「ラミネックス」1966

数多く紹介してきた北欧の椅子も今回が最後になりました。今月は、ご存じない方が多いと思いますが、一本のビスも使わずたった二枚の板が椅子になるニールセンの組み立て椅子「ラミネックス」です。このコラムでとりあげようか、相当迷った椅子ですが。

 イエンス・ニールセンは1937年にデンマークで生まれ、1966年に王立芸術アカデミーを卒業し、デンマーク工業デザイン協会に勤めるが、1971年にデンマーク国有鉄道(DSB)のデザイン部長に就任。以来、鉄道におけるデザインの重要性を説き、CI政策を始めとして宣伝活動から車両、船舶、建築などデンマーク国鉄での多くのデザイン分野の改革を推し進め、公共事業におけるデザイン・マネジメントの規範となる優れた業績を残した。この成果に対して1989年に日本の国際デザイン交流協会から「デザイン・アオード」が贈られた。その他にもブルネル賞やデンマークデザイン賞(1991)など受賞も多く、公共事業におけるデザイン・マネジメントを実践したパイオニアである1。
 また、デンマークデザインセンターの創設などデザイン界の発展にも尽力した。日本との関わりでは、JR北海道とデンマーク国鉄との提携も推し進めたが、1992年に54歳の若さで世を去った。
 鉄道車両の開発ではデンマーク国鉄で有名な「IC3」が代表的な仕事である。その他の業績については、彼の早世を追悼して出版された『Jens Nielsen,』2を参照されたい。
 「ラミネックス」と名づけられた椅子はすでに廃番となり、雑誌『mobilia』のNo.135(1966)に写真が出てくる程度で、その他で公になっている資料が全くない。この椅子は、二枚のゆるやかに曲がった板状のパーツを一本のビスも工具も使わず数秒で組み立てられる椅子。近代デザインの中でこれほどアセンブリーの簡明な椅子は他にない。二つのパーツは同じ曲率で大きく曲げられているが、切り込みの入った背になるパーツは荷重と安定化のために一部がS字状に曲げられ、構造上うまい解決方法。さらに、パッケージサイズがそのS字状の厚みの範囲内に納まるように構成されている。この結果、人間が座るという機能面(人間工学的)と完成度では問題も残るが、パッケージサイズまでも考慮され、企業の「商品」となったことに意味がある。
 数ある20世紀の椅子の中で、たった二つのパーツを簡明なアセンブリー方法によって成立する椅子として、その特殊性の典型として選んだ。
デザイン:イエンス・ニールセン(Jens Nielsen 1937 〜92)
製造:Westnofa(Norway)

究極のアセンブリー
 一本のビスも使わず、二枚の板があっという間に椅子になる。
 マジックを見るような「ラミネックス」の存在を知ったのはこの椅子が誕生した1966年ごろのアメリカで見た雑誌で、そのページだけを破って残していたのだから、当時よほど興味をひいたのだろう。だが、デザイナーの名前などは記憶にとどめていなかった。
 今、改めてその記事3を見ると、プロトタイプでは背と座の先端部分に手で持つための小判型の穴が開いていた。
 初めて現物に出会ったのは10年後の1976年、コペンハーゲンに新しくできたトレード・マート「ベラセンター」4であった。
 そして、その数年後、南堀江・立花通(当時、大阪でよく知られた家具屋街)を歩いていて突然目の前に「ラミネックス」が一脚だけの投売り状態で現れたのでびっくり。比較的安価という僥倖にも恵まれ、即座に買ってアトリエまで持ち帰ったのだが、今そのあたりを歩いてみてもどこで買ったのか全く記憶がよみがえらない。それほどこの街の様相は一変し、10年ぐらい前から大阪で一番ファッショナブルな街に生まれ変わってしまった。
 私がアトリエを南堀江に設けたのは1975年。当時は、若いカップルが手をつないで闊歩する現在のような繁栄とはほど遠く、人影もまばらで閑古鳥が鳴いていた。
 というのも、60年ころからだろう。公団住宅を始めとする洋風の住まいが増え、家具の需要が急増すると、販売には品揃えの点から広いスペースが必要となり、百貨店が家具の販売に力を入れ始めた。今では考えられないことだが、当時の百貨店では家具がほぼワンフロアを占めていた5。その上、競って「家具大廉売」という催を特設会場で頻繁に行い、60年代、家具は百貨店で買う時代であった。
 余談ついでに家具の製造にも一言触れると、終戦直後の1945年、焦土の中での日本の洋家具づくりの発端は進駐軍住宅の「DH家具」6の特需で、納期や資材の調達などに苦労しながら全国の家具製作所が分担して製作。当時大阪でも相当の数量がつくられたという。 
 話を「ラミネックス」にもどそう。今では雑誌や家具関係の本に登場することもなく、ましてや現物を見ることさえできないマイナーな椅子。それを「どうしてここで?」と思われるかもしれないが、私も数ある北欧の最後の一脚にしたぐらいだから、相当迷ったあげくのこと。しかし、パーツをアセンブリーして製品にするという近代モノづくりの典型をこの椅子に見るからで、しかも「企業で商品化」されたことの意味は大きい。この小稿を書くために引きずり出してみると、接合部分のディテールなどは実によくできている。
 正直に言おう。この椅子が鉄道のデザイン・マネジメントで名を成したニールセンのデザインとわかったのは最近のこと。この椅子に関する公の記述はなく、製造したウエストノファ社も既にない。デンマークのデザインセンターなどへ問い合わせて確認したのだが、彼の学生時代のアイデアであったらしく、発想が若いことからも頷ける。
 私が鉄道車両のデザインに関わったのは80年代半ば。それ以前からニールセンのDSBでの仕事には注目していたが、まさか若き日に「ラミネックス」をデザインしていたとは驚きである7。
 家具製造で「ノックダウン」という方法は、輸出を前提に60年代デンマークでは盛んに行われた。70年代には北欧の「イケア」が一般のユーザーを対象に「持ち帰って、自宅で組み立てる家具」として展開されてきた。だが、「ラミネックス」はその究極の特殊解として、今後も現れないであろう一脚である。
① :DSBでの仕事の仕方や内容について、日本インダストリアルデザイナー協会機関紙『インダストリアルデザイン112,1981,31〜32頁にインタビュー記事としてニールセン自身が語っている。
②:Danish Design Center, Jens Nielsen, 1996
③:アメリカの 1965年ごろの雑誌に「7 Designers ’65」」というタイトルで、デンマークの七人の若いデザイナーの作品が紹介された。これによると、プロトタイプは1965年であったようで、その後、ウエストノファ社が商品として売り出したと考えられる。七人の一人にプラスチックのキャンチレバータイプの椅子をCAD社から発表したスティーン・オステルゴー(1935〜)が木製の椅子を発表していた。
④:ベラセンター〈Bella Center〉は1976年にコペンハーゲンにできた「スカンジナビアのトレード・マート」。ガラス張りのデンマークらしいデザインで、総合的な展示場はもちろん、家具産業を国の柱の一つとするデンマークらしく、家具のショールームが常設され、以後「スカンジナビア・ファニチュア・フェア」の会場にもなっていた。
⑤:アメリカでも同じで、1965年当時シカゴの中心にある巨大な百貨店・マーシャル・フィールドでは家具売り場が2フロアを占めていた。
⑥:DH家具は、1845年(終戦直後)、連合軍から駐留米軍の家族用住宅「ディペンデント・ハウス(DH)」2万戸の家具95万点という膨大な家具の製作を依頼され、クルーゼ少佐の指導により商工省の工芸指導所が設計し、全国の家具製作所が分担製作したが、終戦直後のことで材料の調達など短期間の納期で大変であったというが、戦後、日本の家具製作の先駆けとなった。
参考文献として
商工省工芸指導所『デペンデント・ハウス』技術資料刊行会、昭和23年、
雑誌『工芸ニュース』Vol.14、1946
拙稿、日本のデザイン国際交流史『Design Scene』No.23・24、国際デザイン交流協会、1992 PP.35〜38
⑦:ニールセンと言う名前はデンマークで多く、当初鉄道のデザイン・マネジメントで有名なニールセンと「ラミネックス」とがどうしても結びつかなかった。