No.94 チャールズ・レニー・マッキントッシュの 「ハイバック・チェア(ラダーバックの椅子)」(292 Hill House, 1)1902 と 「楕円形の背板のある椅子」(302 Argyle)1897 「カーブした格子背の椅子」(312 Willow,1) 1904

今月は、このコラムをはじめて以来ずいぶん寄り道をしましたが、20世紀初頭にこんなに凄いデザインがあったのか、と思えるマキントッシュの椅子です。

 チャールズ・レニー・マッキントッシュは1868年(明治元年)にスコットランドのグラスゴーで生まれ、16歳で建築家J.ハチソンの事務所に弟子入りしながらグラスゴー美術学校(夜間)で学ぶが、当時からスケッチなどは天才と謳われた。1889年にはハニーマン&ケビー事務所に入り建築設計を始めるが、そこでの1897年が彼にとって大きな転機となる。一つはグラスゴー美術学校増築の競技設計に入賞。この建物はマッキントッシュの代表作となり、当時のヨーロッパ建築界に衝撃を与えた。また同年、グラスゴーにティールームを開設するクランストン夫人からその設計を依頼され、アーガイル街のティールームのためにデザインした「楕円形の背板のある椅子」はマッキントッシュの最初の表徴的な椅子。
 一方で、グラスゴー美術学校の仲間とのグループ「ザ・フォー、The Four」1でのグラフィックを中心としたマッキントッシュの仕事は、19世紀末のヨーロッパ各地の展覧会で大きな評価を受け、1902年のトリノ国際博でその名声を不動のものとし、ウイーン分離派にも大きな影響を及ぼした。マッキントッシュにとって、グラフィックの仕事は彼の空間詩学を考える上で切り離すことができないものである。
 1900年以後のマッキントッシュはアーツ・アンド・クラフトからアール・ヌーヴォーへと移るモダニズム形成期の先駆者で、建築、プロダクトからグラフィックデザイン、さらに絵画といった、およそ造形に関する全てにたずさわったクリエーターで、晩年には水彩画に専念した。
 「ハイバック・チェア」は、出版業者ウォールター・W.ブラッキーのグラスゴー・へレンズバラの別荘「ヒル・ハウス」の寝室のためにデザインされ、二つの衣装棚の間にオブジェのように置かれた。「カーブした格子背の椅子」はウィロー・ティールームの支配人用としてデザインされ、周囲の空間から切り分けるためにデザインされたが、いずれもインテリアと一体化してデザインされた。
 マッキントッシュはほかにも多くの椅子をデザインしているが2、テーブルも格子状の脚部を持つフォールディングテーブル(カッシーナ社で復刻)などがある。
デザイン:チャールズ・レニー・マッキントッシュ(Charles Rennie Mackintosh 1868〜1928)
製造: 1973年にカッシーナ社によって復刻された。尚、椅子の名称については、1979年の「マッキントッシュのデザイン展」図録のものとしたが、カッコ内の英文名はカッシーナ社で復刻された品番。

こんなモダンな椅子が、どうして100年以上も前に
 「グラスゴーは暗い街ね」と言う彼女に思わず相槌を打ってしまった。
 木の葉が色づき始めた京の秋。永くイギリスに住む友人が孫に会うために帰ってきたので20年ぶりに会ったのだが、何の弾みかマッキントッシュの話になったときのこと。
 グラスゴーの街には今もなぜか薄暗いイメージが付きまとうのは、産業革命以後、造船など工業都市として発展し「世界の工場」となっていた歴史的背景からであろう。日本との関係も古く、1863年には山尾庸三3が、その後も岩倉使節団や多く技術者がグラスゴーを訪れ、学び、グラスゴーからは蒸気機関車など多くの工業製品が輸入された。日本の近代化の原風景でもあった工業都市・グラスゴー。そんな街にデザインという大輪の花を咲かせたのがマッキントッシュである。
 マッキントッシュの椅子との最初の出会いはカッシーナ社で復刻された後のことで、赴任した大学で資料として買い入れたときだから1976年。三年後の79年に開催された「マッキントッシュのデザイン展」(西武美術館)4では、初めて見た水彩画などに目を奪われ、陶然として展覧会などで買ったことのない絵葉書を無意識のうちに買っていた。
 マッキントッシュの多くの椅子の中で、ここでとりあげた椅子はいつ見ても100年以上も前の造形とは信じられない。
 「どうしてこれほどモダンなのか?」という疑問に対しては「彼の才能」というほかはないのだが、一つは日本文化の影響。さらに極言すれば、彼は単に椅子をデザインしたのではなかったのである。
 マッキントッシュの家具には、格子戸を見るようなどこか日本的な匂いがするが、彼の日本趣味は相当のものであったらしく、自邸には浮世絵があり、着物などが造形のモチーフとして用いられたという。1862年のロンドン万博以後、ヨーロッパに流入した日本の造形文化は数知れず、彼にも少なからず影響を与えたといってよいだろう。マッキントッシュに詳しい木村博昭は「彼のデザインに現れる抽象化された幾何形体は日本のものに通じ、マッキントッシュにとって日本はデザインの発想の源である」5ともいう。
 また、「ハイバック・チェア」は座面も小さく、誰が見ても「機能的な椅子」とはいえない。これは寝室の二つの白い衣装戸棚の間にオブジェのように置かれ、座ることはできるが、機能としてはモノを置く台のようなもの。室内造形の一エレメント(オブジェ)としてデザインされたもの。一方、ウィロー・ティールームの「カーブした格子背の椅子」も周囲の空間から切り分けるためのものであった。
 この時代、家具は全て別注で、そのデザインと配置計画は室内デザインに大きな役割を果たしていた。マッキントッシュの室内デザインの表現手法として家具まで描きこまれた展開図を数多く見ることができるが、彼にとって家具は室内デザインの重要な要素であった。日本でも70年代初頭までは、椅子などが空間内で固定される船舶、それも外国籍のものでは室内展開図に家具やカーテンまで彩色して描きこむことが要求され、現物どおりのイメージで表現するのに大いに苦労したものである。
 100年以上も前に誕生したマッキントッシュの椅子。それらは「座るという機能」を借りながら、室内デザインの一造形要素としてデザインされたもので、現在の計画生産された椅子とは「デザインの方法論」が根底から異なる。
 とはいえ、その造形は今も新鮮で、感嘆せずにはおれず、不思議な魅力を秘めている。
① :「ザ・フォー」は、マッキントッシュと、グラスゴー美術学校の仲間で、後に妻となったマーガレット・マクドナルド、その妹フランセス・マクドナルドとその夫マックネァの四人で、グラフィックを中心として活動したグループ。
②:フィリッポ・アリソン、『現代家具シリーズ 1 マッキントッシュの家具』A.D.A.EDITA、1978にその全貌を見ることができる。
:山尾庸三(1837〜1917)は、幕末から明治時代に活躍した長州藩士。1863年にグラスゴーで工学を学ぶ。帰国後、東京大学工学部の前身である工部寮を創立した。
④:マッキントッシュの没後50年を機会に、西武美術館と日本経済新聞社の主催で1979年の3月に東京で、6月に大津の西武百貨店で開催された。カッシーナ社によって復刻された椅子以外に、グラスゴー美術館からオリジナル・ドローイングが特別出品された。
⑤:木村博昭「マッキントッシュにとっての日本」、『国際デザイン史』、思文閣出版、2001、32〜35頁。
参考文献:
1979年の「マッキントッシュのデザイン展」(西武美術館)図録のほか、ニコラス・ペヴスナー「マッキントッシュ」、雑誌『都市住宅』71年9月号 93〜96頁。他に多数あるので参考にされたいが、初期の建築作品については、雑誌『SD』74年の8月号に詳しい。