No.96 ガエターノ・ペッシェの「UP」シリーズ 1969

先月は一枚の紙からの椅子でしたが、今月は一枚の板状のものが空気に触れて椅子になるというマジック。1969年に誕生した「UP」シリーズです。これは80年代のポストモダニズムへとつながるイタリアンデザインの鼓動が聞こえる一脚です。

ガエターノ・ペッシェは1939年にイタリアのラ・スペツィア(La Spezia)で生まれ、10代のころから音楽と美術、特にデュシャンやダリに影響を受け形象美術(Figurative Art)に興味を持ちながら、ベネツィア大学で建築を学ぶが、そのころ、彼の造形活動に素材面で決定的な役割を果たしたのは化学工場でプラスチックとの出会いである。
ペッシェは60年代中頃から今日まで「変容」をキーワードに建築をはじめ家具や照明器具のデザインのみならず、絵画や彫刻、また映像やパフォーマンスなどジャンルを超えた前衛的活動を続け、デザイナーや建築家という単純なタイトルで呼べない異端のクリエーターである。その活動は彼の首尾一貫した思想表現で貫かれ、活動拠点もイタリアからフィンランド、フランス、そして80年からはニューヨークを本拠地として活動を続けている。
日本との関係も深く、福岡のホテル・イル・パラッツオ(1989)1のインテリアや大阪のオーガニックビル(1993)2のデザインの他、1990年に東京で開催された「クレアティヴィタリア、CREATIVITALIA 」展3の会場構成とその翌年には東京で1969年以来の仕事をまとめた展覧会も開催された。
ペッシェの衝撃的なデビューは1969年の「UP」という椅子のシリーズで、当初の「UP」は真空状態に圧縮したウレタンをPVCで板状にカバーリングしてデリバリーし、使用段階で発泡させて椅子にするという画期的なもので、「変容する家具」というのがテーマで「UP1」から「UP7」4までの七種類からなる。その中で代表的な「Mamma」と名づけられた「UP5」は女性の身体を表現し、「UP6」のボール状のオットマンとは対をなし、鉄球につながれた女性(抑圧された女性)という幼少時に母によって育てられた体験によって培われたペッシェの女性観を表現している。
「UP」シリーズ以後、今日までのペッシェの仕事はあまりにも多岐にわたり、血塗られた不気味さやエロスの表現など彼独自の思想世界を展開しているために難解さが付きまとうが、これほどジャンルを超えて表現し続けたクリエーターも珍しい。
椅子では「使用」の点では難しいものもあるが、彼の思想をベースに素材と色彩にこだわったものが多く、「ニューヨーク」(1980)や「グリーン・ストリート」(1984)、またフェルト地を使い座る人間を包み込むような椅子「フェルトリ」(1987)などがある。
デザイン:ガエターノ・ペッシェ(Gaetano Pesce 1939 〜)
製造: 発表当時はC&Bイタリア社(C&B ITALIA)で、1973年からB&Bイタリア社となる。2000年のミラノ・サローネで復刻された。

異端のクリエーター
大阪のまん中、南船場に突如大きな植木鉢をぶら下げたビル2が出現したのは1993年。
バブル経済とポストモダニズムという麻疹のような流行が重なり、大阪にも目新しさを求めて海外の建築家に設計を依頼したビルが出現したのはまさに世紀末現象。
このビルがガエターノ・ペッシェのデザインだと知ったのは少し後のことで、どのような経緯で彼にデザインを依頼したのか知る由もなかったが、大阪にも勇気のある人がいるものだ、と前を歩くたびに感心していた。というのも、70年代以後のペッシェの仕事には血塗られた不気味な様相の造形など、彼の難解な仕事の数々を見続けていたからだ。
ペッシェといえば、なにをさておきこのビルより20年以上も前の1969年に発表された「UP」である。この椅子のシリーズが発表されたときはミラノだけでなく、世界中が驚きの声をあげた。決して大袈裟な話ではない証拠に、イタリアはもちろんのこと、アメリカ、北欧でもデザイン誌で大々的に報じられ、今それらを机上に集めてみるとミラノでの喧騒は想像するに難くない。なかでも、デンマークの「mobilia」誌などは、11月号で表紙にまでしてとりあげ、12月号では「イタリア家具の物語」という特集号でありながら、「UP」シリーズとペッシェらによるイベントまで報じ、まさにペッシェ特集号の観さえあった。
「UP」が驚きを誘い、注目されたのはペッシェの思想とともに外観からはわからないトリックではなかったか。デリバリー段階では板状のものがユーザー段階で膨らみ椅子になるのである。これにはペッシェの思想的背景によるとしても、科学技術の大いなる成果である。
輸出のみならず、椅子のデリバリー段階での課題はかさばることで、体積を小さくする方法はこれまでにも使用段階で空気を入れて膨らませたり、シート状の紙を組み立てたりした例もあるが、一般的にはトーネット以来「ノックダウン」という方法がとられてきた。だが、体積のみならずペッシェの言う「変容する家具」として化学変化により様態まで変わる椅子は史上初で、世界中を驚きの渦に巻き込んだ。
さらに、椅子の発表にあわせて展開されたプロモーションのための写真やロゴを含めたパッケージなどの商品化計画もまた「すごい」の一言。一つの椅子の発表にこれほどまでの仕掛けは当時としては異例で、それ以後も見かけた覚えはない。
革新的な「UP」を生み、世に送り出しえたのは一人の人間との出会いからである。その人物とは、ペッシェが「ある種、父」ともいうカッシーナ社のチェーザレ・カッシーナ5で、最初の出会いは1964年というから「UP」シリーズ誕生の5年も前のこと。それ以後の二人の関わりを知ると、モノの誕生には人間関係がいかに大きいかを改めて知る想いである。同時に、ウレタンなど新しい素材と製法に未来の椅子の姿を捉え、「UP」シリーズの誕生に直接的に関わったC&Bイタリア社のピエロ・ブズネリ6。彼の精悍な風貌も忘れることはできない。
70年代以後のペッシェは「生と死」などのテーマで独自の世界を展開し、その難解さを一言で書き留めることなどできないが、中原佑介は「デザイン—その二重性」7の中で、ペッシェの仕事を「形而上的デザイン」と位置づけ、機能と反機能の二つの世界にまたがる二重性をもったデザインであるとし、彼のテーマの一つである「生と死」についても、死は生のあとにくるものではなく、死と生は循環するもので二重的なものとしてクローズアップされる、と評している。
1969年、日本では万博ムード一色の中、ただ気ぜわしく動き回っていた私にとって、「UP」は強烈なパンチを食らった一脚であった。
①:アルド・ロッシが基本設計した福岡のホテル。
②:「オーガニックビル」は「ヴァーティカル・ガーデン」とも呼ばれる大阪の南船場にできた小倉屋山本の本社ビル。
③:1990年の4月17日から5月13日まで東京港区レールシティ汐留で開催されたイタリア・デザインの全貌を紹介する展覧会。
④:「UP7」は人間の足首をかたどったもので、一般的にいう椅子とは異なる。
⑤:チェーザレ・カッシーナ(Cesare Cassina)はイタリアだけではなく、世界の家具デザインをリードするカッシーナ社の創業者。ペッシェとの関係については:Marisa Bartolucci, Gaetano Pesce, Chronicle Books, 2003 に詳しい。
⑥:ピエロ・ブズネリ(Piero Busunelli)は現在のB&Bイタリア(当時のC&Bイタリア)の創始者。1960年代にウレタンなどの素材と製法による新たな家具づくりを目指し、カッシーナの協力を得てC&Bイタリアを立ち上げ「UP」を誕生させた。その後カッシーナが去りB&Bイタリアとなるが、イタリアのモダン家具を新たな素材と製法で牽引した。
⑦:雑誌『JAPANINTERIOR DESIGN』1974年3月号41頁。尚、中原佑介は現代美術に関する多彩な評論活動で知られる美術評論家で、京都精華大学の学長も勤めた。
参考文献:
Marisa Bartolucci, Gaetano Pesce, Chronicle Books, 2003
Giampiero Bosoni, made in Cassina, Skira Editore S.P.A. 2008のほか数多いが、雑誌『SD』1978年9月号で磯崎新編の「Imaginary Architecture」 や『JAPAN INTERIOR DESIGN』1974年3月号の特集記事を参照されたい。