No.99 マリオ・ボッタの「セコンダ」と パイプを主材にした一連の椅子1982〜1987

先月、ポストモダンの椅子について書きましたが、今月はその流れの中にあって金属だけでできたユニークなボッタの椅子を紹介します。

 マリオ・ボッタは1943年にスイスのメンドリシオ(Mendrisio)に生まれ、1961年からミラノのアートカレッジやベネチア建築大学で建築を学び、1969年に卒業。ベネチアでは1965年にル・コルビュジェの、69年にはルイス・カーンの助手を務めた後独立。1973年にリヴァ・サン・ヴィターレ (スイス)の住宅1で脚光を浴び、以後はスイスを中心に世界中で活躍する建築家で、代表作としてサンフランシスコ近代美術館(1994)がある。日本では東京・渋谷のワタリウム美術館(1990)があり、1886年には来日して講演などを行い、1990年の4月には東京で椅子などを中心に「マリオ・ボッタ展」が開催された。
 ボッタは多才な建築家で多くの建築を設計しているが、80年代には椅子やテーブルなど家具も数多くデザインし、最近では時計や雑貨類に加えジュエリーまでデザインしている。
 椅子はいずれも金属素材の使い方と構成でユニークなものが多いが、「使用」という点では目的と場所を選び、小椅子といえども多用することは難しいが、そのユニークな造形は時に空間内で独特の存在感を示す。
 細いパイプで構成された一連の椅子には「プリマ、Prima 」と「セコンダ、Seconda(1982)に「クインタ、Quinta」(1985)、「ラトンダ、Latonda」(1987)の4種があり、いずれもスティールパイプのマットブラック塗装のフレームに座は粉体塗装されたパンチングメタルが中心である。日本でも90年代に販売されたが、価格がこの種の椅子としては高額であった。(参考までに、90年代末の「セコンダ」は118,000 円)
 他にも、よくぞここまでと思えるユニークな造形の椅子として、クロームメッキや黒で粉体塗装されたアルミパイプを連ねて平面を構成した「クォルタ、Quarta」(1984)、金網のようなパンチィングメタルを円筒形にしてフレームを構成し一人用、二人用、ソファの三種類に展開した「シックスス、Sixth」(1985)などがある。
デザイン:マリオ・ボッタ(Mario Botta、 1943〜)
製造: アリアス・デザイン(Alias design)
存在感を示す。
 細いパイプで構成された一連の椅子には「プリマ、Prima 」と「セコンダ、Seconda(1982)に「クインタ、Quinta」(1985)、「ラトンダ、Latonda」(1987)の4種があり、いずれもスティールパイプのマットブラック塗装のフレームに座は粉体塗装されたパンチングメタルが中心である。日本でも90年代に販売されたが、価格がこの種の椅子としては高額であった。(参考までに、90年代末の「セコンダ」は118,000 円)
 他にも、よくぞここまでと思えるユニークな造形の椅子として、クロームメッキや黒で粉体塗装されたアルミパイプを連ねて平面を構成した「クォルタ、Quarta」(1984)、金網のようなパンチィングメタルを円筒形にしてフレームを構成し一人用、二人用、ソファの三種類に展開した「シックスス、Sixth」(1985)などがある。

私の記憶を呼び覚ましたボッタの椅子
 「どうしてボッタの椅子が100脚に?」、と訊かれそうだが、椅子の概念を超えた造形と私の古い記憶を呼び覚ましてくれた一脚だから、とだけ最初に断っておこう。
 ボッタの椅子は、その造形のユニークさから80年代の「ポストモダン」の流れで語られがちだが、少しばかり異なるのは、パイプを主材とするいずれの椅子もストイックに色彩は黒が基調で、販売量は不明だが商品として計画生産され、市場に出回った点にある。
 70年代後半から金属家具メーカーとの仕事でいやというほどパイプと格闘し、その可能性に少々疲れてやって来た1988年のニューヨーク。新しくできた「IDCNY」②でボッタの細いパイプの椅子達に出会った。なかでも「セコンダ」を目にするとリヴァ・サン・ヴィターレの赤いブリッジが重なり、その新鮮な構成に驚かされた。聞けば、その二年前の1986年、「IDCNY」のオープニングでボッタが講演し大盛況であったという。ポストモダンの潮流に翳りが見えはじめていた当時にあっても、彼の仕事は人々を魅了する何かがあってのことだろう。そして、この時ボッタの椅子との出会いから記憶の糸を紡いでいくと、シカゴ時代にまで私の辿った20年余りの時間軸を逆回転してしまったというのも今回ボッタの椅子をとりあげた理由でもある。
 「セコンダ」に出会って即座に脳裏をよぎったのは、その数日前に22年ぶりに再会を果たし食事をともにしたデービッド・ローランド③と彼がデザインした「GF40/4」(1964)であった。かつてシカゴで初めて出会い、「金属のみで量産化され、これほどまでの椅子を」と私を唸らせ、ニューヨークでは40脚を積み重ねたアートのような様相に触れて以来、既に20年余りも経っていた。アメリカのミッドセンチュリーを代表する「GF40/4」とボッダの椅子。同じように金属だけでできた黒い二つの椅子は、この20年間の時の流れを見事に象徴していた。
 一方、IDCNYといえば、ニューヨーク市が威信をかけてロング・アイランド(マンハッタンからイーストリバーを隔てた対岸)の再開発にあわせて計画したデザインセンターで、ニューヨークになかったインテリ関連のビジネス拠点として大いに期待されたもの。
 当時、三番街に近い38丁目のアパートに住んでいた私は、時間をもてあまし気味によくマンハッタンを跋渉していたが、ある日のこと、三番街の何丁目だっただろうか、曲がり角の壁に大きく書かれた「IDCNY」というサインが目にとまった。当初は何のことかさっぱりわからず、ましてやこのロゴがマッシモ・ヴィネリ④のデザインとは知る由もなかった。これがIDCNY行きのシャトルバスの発着場のサインとわかり、早速でかけてみたのだが、その日はあまりに閑散としていてシカゴのマーチャンダイズマートとは雲泥の差。敷地の中にはいまだ荒れた部分が残り、セイタカアワダチソウに似た雑草の黄色の花の間からマンハッタンのスカイラインを臨むことができた。
 その後、IDCNYは思うようにテナントが集まらず、消えてしまったと聞くと、立地条件の悪さはどうすることもできなかったのだろう。
 だが、訪れたIDCNYはロゴだけではなく施設内のサインやショッピングバッグなどビジュアル計画がなんともかっこよく、これらがヴィネリのデザインだと知ると、彼のニューヨーク地下鉄の地図やつい二ヶ月前にIITのクラウンホール⑤で出会った「ハンカチーフ」という椅子などが走馬灯のように駆け巡った。そして何より、彼がイタリアからやって来てIITやダブリン教授との関係などを知るにつけ、造形の新鮮さとともに私のシカゴ時代の記憶にまで遡らせてくれたボッタの椅子には、ひとしおの縁を覚える一脚である。