No.48 長大作の低座椅子 1960

先日、長さんから世田谷美術館での展覧会の案内をいただいた。実は、60年代の初め、デザインをはじめたころ日本の椅子で意識したものの一つが長さんの低座椅子であった。

長大作は旧満州に生まれ、1945年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)建築科を卒業。坂倉準三建築研究所に入所し、多くの建築設計と家具デザインを行うが、1960年の第12回ミラノトリエンナーレの展示計画を坂倉準三が監修。そのとき同じ所員の北村脩一と担当(展示計画は金賞を受賞)し、これに出品した低座椅子は翌年天童木工で製造・販売され、以来今日まで数多くつくられている。1972年に独立して、住宅を中心に建築設計と家具のデザインで活躍し、今日も活躍し続けるデザイナーである。
低座椅子の原点は、1948年ニューヨーク近代美術館主催の「ローコスト・ファニチュアコンペ」(*1)に坂倉準三が佳作賞を得た竹かごの低い座を持つ椅子であろう。竹を家具の材料とする発想は、1940年日本政府の招きで来日したシャルロット・ペリアンが竹という素材に注目してデザインした家具を「選択・伝統・創造」というテーマで、翌年の春に東京と大阪の高島屋で展覧会を開催して発表。大きな反響を呼んだ。(*2)実はペリアンの招請から展覧会までには、坂倉準三の尽力が大きいのだが、竹で家具をつくるというヒントをこのとき外国人のペリアンから得ていたと考えられる。
長の低座椅子はこの坂倉の延長線上にあるのだが、長が「柿の実からヒントにした」と言うように、大きな丸い座や背に特長がある。さらに、坂倉のものと異なる点は板脚の角度である。この角度により大きな座をより浮遊させることに成功している。
長の他の椅子では、低座椅子と同じような丸い座と背を持つ一連の小椅子がある。これは1955年ごろから改良やら脚部の違いなどを含め多くのバージョンがあり、低座椅子と並んで長の代表作である。その他にも、フリーダムチェア(1973)や木製の椅子など多い。
ここで、デザインの権利について少し触れておきたい。坂倉事務所に在籍中にデザインした低座椅子が長のデザインとして、現在、広く認知されていることはある意味で幸運であった。それは坂倉事務所が建築の事務所であったことと、日本でこの種の権利関係が未成熟の時代であったことが大いに幸いしている。海外のデザイン事務所であれば低座椅子は坂倉準三のデザインとして、今日でも記録されていたであろう。(*3)
デザイン:長大作(1921〜)
製造:天童木工
*1:このコンペで、イームズが2位に入賞、英国のロビン・デイが収納家具で受賞。審査員の中の一人がミース・ファン・デル・ローエであった。佳作賞に坂倉準三のほかハンス・ウエグナーやフランコアルビーニも。*2:「家具タイムズ」630号参照。*3:海外のデザイン事務所では一般的にデザインの所有権は明解である。あのマシュマロソファがアービング・ハーパーではなくジョージ・ネルソンのデザインであるように、私がネルソン事務所入所のとき、仕事で考案した一切のものの所有権は事務所のものという書類にサインさせられた。
参考文献:世田谷美術館での展覧会図録(2006)のほか、島崎信著「一脚の椅子・その背景」建築資料研究社

1960年、浮かせた大きな丸い座
細い通路を通り抜けると、明るい扇形の部屋が突如あらわれ、長さんの椅子たちがまるで交響曲を奏でるように舞台に並んでいた。
先日、世田谷美術館で開かれた長さんの展覧会でのこと。(*1)会場の中央、指揮台に代わって畳敷きの台が置かれ、その上に低座椅子が鎮座。砧公園の緑をバックに多くの椅子がそれぞれの存在を主張しながら「長大作の椅子の世界」を奏でていたが、低座椅子はやはり指揮者で、中心であった。
低座椅子に初めて出会ったのはいつごろだったか?多分40年にはなるだろうか。写真の上では60年のミラノのトリエンナーレだから45年以上にもなるのかな、と思っていたところへ、ふっとTシャツ姿の長さんが現れた。即座に久闊を叙したが、長さんの話によると、低座椅子はデザインして45年になるので、記念に脚部を黒く塗ったバージョンを何本かの限定でつくったと言う。が、どうして黒なのか。黒という色が好みなのかも知れないが、ちがうだろう、と思う。
この椅子を評論家的な人は、座が低く、和の空間に合う日本的な椅子として評価するが、それはその通りだろう。だが、デザインを実践してきた私にとっては、最初に出会ったときからこの椅子のよさは座の浮遊感にあった。この点で、この椅子の原点とされる坂倉のデザインした低座椅子とは造形として基本的に異なり、これは長さんのオリジナル。たとえ、脚部が駒入りの成型合板に変わろうが、浮遊感を成立させているのは二枚の板脚の角度にある。図面を描いてきた人間でないとわからないだろうが、背面図でこれだけの角度をつけて座と背を支持させることは、余程の意図がないとできないこと。フィン・ユールが貫の入れ方でフレームから座部を浮かせたように、長さんは板脚の角度を極端につけることで、側面から見たときに座の下に影をつくり座の浮遊感を強調したかったのだ、と私は勝手に思っている。
長さんは、デザインして45年になる記念のバージョンの脚を黒くしたというが、板脚を角度だけではすまされず、人形浄瑠璃の黒子のようにしたのではなかったか。
長さんと親しくお会いしたのは1980年。私がデザインした「システム8000」というオフィスのシステム家具を評価していただき、銀座の松屋で展覧会を推薦してもらったときだから25年以上も前のことになる。が、それ以前、私が高島屋に入社した当時から多くのご縁があったように思う。長さんが坂倉事務所(*2)の所員として、若いころ高島屋(大阪)の増改築にかかわったことから、当時の高島屋工作所や設計部の先輩から長さんの話を入社当時からいろいろ聞いていたし、私が天童のコンペで受賞したとき(1963)の審査員であったこと。また、35年ぐらい前になるであろうか、坂倉事務所の仕事を手伝ったとき、「このように描いてくれ」と長さんの図面をサンプルとして渡されたのだが、仕様などの文字が実に丁寧で美しく、これはまねができん、と降参したことなど長さんの知らないところであったいろいろなご縁を思い出す。
1960年は、日本が高度経済成長へとまっしぐらにスタートを切った年であるが、デザインではミラノトリエンナーレでの展示や低座椅子が海外で得た評価の大きさの一方で、偶然なのか、同年東京で世界デザイン会議が開催され、日本デザインの船出であったと記憶する。が、これにも坂倉準三が大きな役割を果たしていた。(*3)
1960年は、東京で、ミラノで日本のデザインが世界に情報を発信した節目として、この低座椅子とともに記録にとどめるべき年であろう。
*1:2006年7月15〜9月24日まで東京・世田谷美術館で、「クリエイターズ」と題した他の二人のデザイナーとの三人展。
*2:当時の正式な名称は坂倉準三建築研究所であるが、大阪の事務所には先輩、後輩など多く在籍し、われわれの間では坂倉事務所と呼んでいた。現在の名称は坂倉建築研究所。
*3:1960年5月11〜16日まで大手町の産経会館で世界26ヶ国からの参加者もあって開催された。テーマは「今世紀の全体像:デザイナーは人類の未来社会に何を寄与できるか」という、今から考えても壮大なものであった。