Np.55 リチャード・シュルツのレジャーコレクション

先月のスティーブンスのサイドチェアで、60年代のアメリカを終ろうと考えていました。また、今回の椅子を100脚の中に入れようか、どうしようかと悩みましたが、企業姿勢やマネジメントについてもう少し書きたくなり、もう一回ノール社の椅子です。

リチャード・シュルツはアメリカ・インディアナ州に生まれ、1951年にイリノイ工科大学のデザイン科(Institute of Design)を卒業。その年よりノール社に入社し、当初は開発部門でベルトイアのダイヤモンドチェアのアシスタントを務めていたが、1960年にダイヤモンドチェア用の花びら型のテーブルをデザインして注目される。フローレンス・ノールに「家具デザインをやりたい」と言ったとされるが、レジャーコレクションは彼女の依頼によって誕生した。
このシリーズでは、ラウンジチェアやシェーズロング(車輪付や角度調節のできる寝椅子タイプ)の他にテーブルなどのシリーズとしてデザインされている。
このシリーズの椅子の特徴は、主にプールサイドなどの屋外用として考えられたとはいえ、アルミ鋳物のフレームで軽量のうえに人間を支持する部分をメッシュ状の素材(ダクロン)を張り巡らしたことである。最近でこそオフィス用の回転椅子などにメッシュ状の素材が張られたものが大流行だが、製品として世に出たのはこのレジャーコレクションが最初である。かつて、イームズが屋外用として開発を始めたアルミナムグループのプロトタイプで、メッシュ状の素材(サラン)を試みているが、完成品では布とビニールレザーになった。(*1)
1967年、アメリカのインテリアデザイン協会から国際デザイン賞を受賞。
現在、シュルツはペンシルベニアで自らの会社を設立し、屋外家具のデザインを中心に活躍している。
デザイン:リチャード・シュルツ(Richard Schultz 1928〜)製造:ノール社(Knoll)*1:家具タイムズ633号参照。

社員をスターにした慧眼
昨今、イラク戦争のことを聞き知ると、ベトナム戦争で病んでいた1965年ごろのアメリカ社会とどうしても重なって見えてしまう。当時、兵役を逃れるために大学院へ入学してくる学生もいたし、キャンパス内でも「徴兵」という言葉が飛び交っていた。
その一方で、アメリカらしさが満ちていた時代でもあった。
「なにがアメリカらしさか?」と聞かれると困るのだが、ポップアートを中心とした現代美術やモダンジャズが黄金時代であったことだけは確かで、アメリカ文化を象徴していた。アートではリキテンシュタインやウォホール、ジャズではマイルスやコルトレーンになど、このころのスターを挙げると枚挙に暇がない。
ニューヨークでの貧乏生活ではやりたいことにも限りがあって、たまに1ドルでビールが飲めてジャズを好きなだけ聴けるジャズクラブは週末の息抜きには格好の場所。現在とは違って入れ替え制もなく、スタープレイヤーが隣の席で飲んでいるのだからジャズファンにとってはたまらない。あのころ日本のジャズキチの友人に絵葉書を書いて大いに羨ましがられたものだ。ジャズにまつわるいろんな経験を語れば尽きないが、新しいジャズに挑戦していたオーネット・コールマンが出るというので、イーストサイドのちょっとやばそうなクラブへ行き、息抜きどころではなかったこともあったし、あの近代美術館の庭で彫刻作品にもたれたり、馬乗りになったりして「ジャズの夕べ」を堪能したこともある。このときばかりはヘンリー・ムアーの彫刻も単なる石ころであったのだが。ジャズのことを書き出せばきりがないので本題のデザインの話にもどそう。
デザインの世界、なかでもインダストリアルデザインの領域ではデザインコンサルタント、日本流にいえばデザイン事務所がこれも全盛期。スターデザイナーが華々しく活躍していた。1966年の雑誌「インダストリアルデザイン」6月号を見てみると、エリオット・ノイスを始めヘンリー・ドレフィスやチャップマン(*1)など当時のスター事務所がずらりと顔をそろえた特集号。その号のニュース欄にリチャード・シュルツのレジャーコレクションが「Knoll goes casual」というタイトルで紹介されていた。先月のスティーブンスのサイドチェアにも驚かされたが、当時ノール社がこんな椅子までやるのかと、首を傾げたのは私だけではないことがこのタイトルからも分かるであろう。というのも、ノール社とハーマンミラー社は互いにモノづくりの哲学を持ちレベルの高い製品開発によって、当時アメリカのオフィスを中心としたパブリック空間の市場を二分していたからである。レジャーのようなカジュアルな領域は、当時の私の思考では考えられなかった。
ビジネスになるものは何でもやる、と電話帳のような分厚いカタログをつくり、ほとんどよく似た商品で競い合っているどこかの国とはまったく異なるのだが。
モノづくりのデザインにおいて、当時のハーマンミラー社はもちろんイームズとネルソンの二枚看板であったが、ノール社ではサーリネンはすでになく、アメリカにおける適当な事務所はなかったのだろう。北欧やイタリアからウエグナーやスカルパのデザインしたものを輸入して間に合わせていた。が、60年代のノール社は社外に頼ることなく社員にデザインをさせ、世に問うものを造ったことは特筆されるべきである。「Knoll」というブランド力があったとはいえ、アルビンソン、スティーブンス、このシュルツなど社員のデザインを歴史に残る椅子にまでしたことはフローレンス・ノールの勇気と慧眼に他ならない。
企業内のデザイナーが自らの名前で仕事を公にできる、そんな企業風土にも羨望のまなざしで接していた。
*1:チャップマン(Dave Chapman)は、Dave Chapman,Goldsmith & Yamazaki Inc.という名称でシカゴにあった工業デザイン事務所。1959年産業工芸試験所の招きでイリノイ工科大学のダブリン教授とともに来日し、講習会を開き大きな反響を呼んだ。