No.45 シェーカーの椅子 1780年頃から

クリントやモーエンセンの椅子について書くと、どうしてもシェーカーの家具や生活について書かなければならなくなりましたが、とても限られた紙幅では書けません。多くの参考書がありますので参考にしてください。

シェーカーの椅子。これほど20世紀の椅子のデザインに影響を与えたアノニマス(無名性)な椅子もない。
1774年、マザー・アン・リーに率いられた少数のシェーカー教徒(*1)がイギリスからアメリカ東北部に渡り、独特の厳しい戒律による質素な生活で世間から隔絶したコミュニティ (宗教生活共同体)をつくり、18世紀末から20世紀中ごろまで活動を続けた。最盛期にはコミュニティが19個所にもなったという。この活動を支えた建築をはじめ自給自足の生活から生まれた家具や日用雑貨(衣服なども含め)などは装飾を排し、簡素で機能的な造形を生み「シェーカースタイル」ともいわれている。
家具は椅子の他に、壁面収納家具、チェスト、各種テーブル、ベッドなど多岐に及ぶ。特に椅子は近代デザインに大きな影響を残したが、なかでもロッキングチェアはシェーカーによって完成されたともいえる。
シェーカーの椅子の特徴を一言でいうなら、「機能性とシンプルな造形」にある。彼らの信条のなかに「美は用に宿る」というのがあるが、これを近代デザインの機能主義の教義ともいうべき「形態は機能に従う」より100年も早く実行させていたことは驚くべきこと。これも神への信仰という精神性が近代デザインの論理以上の意味を持って具現されたのであろう。
彼らの作り出した椅子は、コミュニティの資金面を支える目的もあり、1873年にエルダー・ロバート・M・ワゴンによって機械化された工場をマウント・レバノン(ニューヨーク州)に開設、企業化され、カタログまで作られ通信販売された。そのカタログによると、当時シェーカーの椅子と称してイミテーションが多く出まわったために、金色の転写によるトレードマークを椅子の一部につけることで、買う人に判別させた。さらに、種類別に製品番号までつけ標準化していたことは画期的である。(*2)
*1: シェーカー教はキリストの再臨を信奉するクエーカー教の一宗派。*2: Robert F.W.Meader(Director of the SHAKER MUSEUM),ILLUSTRATED GUIDE TO SHAKER FURNITURE,Dover Publications,Inc.,New York

豊かさとは
「リクヘェーイ」とすっとんきょうな声が電話口で響いた。20年前と変わらないイントネーションに懐かしさがこみあげる。
1987年、再度のアメリカ生活をはじめ、ミネアポリスに住むかつての友人Cに電話をかけたときのこと。突然の電話に彼は吃驚仰天し、瞬時に「逢おうよ」となり、 彼なりの作戦を立ててくれた。Cはイリノイ工科大学で学んだあと、西海岸などで職を転々として苦労を重ねたあげく、ミネアポリスの大学で教職についていた。
数日後、電話をかけてきて、「おまえも大学の教師をしているのだったら、ぜひわれわれのやっているプロジェクトに意見を」と言う。 大学時代から気のいい男で、シカゴからの飛行機代を大学に出させるために「招待」というかたちにしてくれたのだ。
行って見ると、そのプロジェクトは身障者のためのバスルームや台所の開発で、体育館のような広い工房によくもこれだけというほど原寸大のモックアップが並び、その量に驚かされた。さすがアメリカ、田舎の大学でもやることのスケールが違うと感心しながら、モデルの間を縫うようにして説明を受けたが、驚いたのはそれだけではなかった。「招待」のための儀式的なことを終え、夕方彼の家に行ったときのことだ。なんと彼はつぶれかかった小さな教会を指差し、「これがわが家だ」と言う。なかに入ると、内装工事現場のような状況にただ唖然とするばかり。木材や大工道具の散乱する居間(正確にはかつての教会の礼拝堂)で安物のスティールの椅子に腰をおろし旧交を温めたのだが、彼は「家はボチボチ住みながらなおしていくよ、多分10年はかかるだろう」と、あっけらかんとして笑って言う。
ふと、隅の方に目をやると古びた椅子が一脚目に留まった。シェーカーの椅子である。聞くと、彼は入手のいきさつを得意げに語るが、シェーカーの椅子も19世紀末には相当コピーが出まわったから、これがどの程度のものか私には判断できなかった。が、そんなことはどうでもよかった。シェーカーの椅子に刻まれた形而上の意味を問いなおすなら、これは彼のライフスタイルにふさわしい一脚であるのだから。
翌日、田舎町で見るべきものもすることもない。「魚釣りにでも行くか」と彼の子どもらとおんぼろ車で近くの湖へ出かけたが、あたりは緑一色のミネソタの自然。出会う人影もない。釣り糸をたれながら給料や物価のことなどを話すたびに、貧乏学生であった昔の私とは立場が逆転していたことを実感する。私の三分の一程度の収入で5人の子供をかかえ、つぶれかかった教会を自らの手で修理しながら住む。そして、彼は屈託なく言う。「金はなくとも、われわれにはこんな豊かな自然がある。日本は自然の土地でも買ったらどうか」と。このときばかりは、冗談とも本気ともとれない皮肉混じりの口調で言う彼の言葉が胸に突き刺さった。
このところ、拝金主義や格差社会の話題が実に多い。先日もある小学校の校長先生から「最近の子どもの卒業文集に、将来の夢として金をもうけたいという内容が多い」という話を聞いたが、当時の日本はバブル経済まっただ中。あらゆる事象を金の価値で置き換えていて、アメリカ人から皮肉交じりの言葉をかけられることも多かった。(*1)
シェーカーの椅子にはそれまで何度か出会っていたが、このとき出会った一脚は所持者の生きざまを象徴し、デザインなどという些末なことを通り越し、椅子に刻み込まれた情報、それも「生き方」を、激しく問いかけてきた貴重なものであった。
「豊かさとはなにか」、「いかに生きるか」という大きな問いを土産にもらい、その日の夕方ミネアポリスの空港をあとにした。
*1:1987年当時、日本全体の地価総額はアメリカの2倍というばかげた数字も踊っていて、日本企業がニューヨークの大きなビルやホテルを買いあさり、一部で顰蹙をかっていた。